「フランク・ザッパ」の版間の差分

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==音楽性==
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ロック・ミュージック、ポピュラー音楽の表現しうる領域の拡大に関して功績があり、前衛ロック、[[現代音楽]]、[[ミュジック・コンクレート]](電子音楽の一種)、[[ジャズ・ロック]]/[[クロスオーバー (音楽)|クロスオーバー]]、(「[[テクノ・ポップ]]」ではない)構築的な電子音楽、などのジャンルのポピュラー音楽的翻案に先鞭をつけ、グラミー賞受賞という評価も受けた。なおかつ[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]、[[ドゥーワップ]]、[[ブルース]]、[[サイケデリック・ロック]](本人は生涯を通してアンチ・ドラッグの姿勢を貫いたが)、[[ハード・ロック]]、[[プログレッシヴ・ロック]]、[[ブルース・ロック]]、[[フリー・ジャズ]]、[[パンク・ロック]]、[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]、[[レゲエ]]、[[オペラ]]、[[ディスコ (音楽)|ディスコ]]などの多彩な音楽の意匠を取り入れた「ミクスチャー」な作風を示しており、自作曲の再演やリアレンジ・Xenochronieと自称するところの編集作業・フレーズやオスティナートの再登場や自己引用などによる重複も多いものの、生涯にわたって非常に旺盛な創作を続けた(その一方で同一曲にも時期ごとに多彩なヴァリアントが存在し、そのほとんどはブートレッグでしか聴くことは出来ない)。その活動の活発さゆえ未発表テイクやライヴ音源も膨大に残されており、現在もザッパの遺族によって年に数作ほど「新作」が発表されるほどである。
 
その音楽性のルーツは、[[現代音楽]]と[[ブラック・ミュージック]]の二本柱であると言ってよい。彼が[[エドガー・ヴァレーズ]]の作品集を初めて購入し舐めるように聴いていたのは14歳のころであり、同時期に[[イゴール・ストラヴィンスキー]]や[[アントン・ウェーベルン]]のレコードもよく聴いていた。それらと並行して、膨大な量のR&Bのレコードを聴き漁っていたことを自伝で記している。そのためキャリアの初めはヴァレーズのパーカッシヴな楽曲を受けてか[[ドラムス]]であり、マザーズの前身はソウルバンドであった。しかし活動を続けていくうちにそうしたジャンルを越え、多彩な要素を盛り込んだ音楽を創造していくことになる。
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楽曲面においては変拍子・連符・ポリリズムなどを駆使し執拗に変化する複雑なリズム、転調・移調の多用と独特のハーモニー、多彩なヴォーカルと分厚いコーラス、長尺のギター・ソロに代表される豊かな即興、大胆な他作品の引用などが特徴であるが、それらをあくまでポピュラー・ミュージックの埒内で構成する姿勢がザッパの持ち味である。初期のR&Bに立脚した音楽性をオリジナル・マザーズ解散期に清算してからは、フロー&エディに始まる複数のヴォーカリストの起用もメインとなり、ジャズ・ロック期以降には二、三人はざらなリズム・ギターやキーボード、時にブラスセクションを加えた大所帯のアンサンブルが目立つようになる。なお、時代によって音楽性が異なるザッパであるが、過去のレパートリーを埋もれさせることもなく、88年のラスト・ツアーにおいてもオリジナル・マザーズのレパートリーを演奏したりもしていた。その際には事前の綿密なリハーサルによって複数パターンのアレンジを練り直し、ザッパの出す指示によってどのパターンも瞬時に演奏できるようメンバーにその要諦を徹底的に叩き込んだといわれる。
 
歌詞においては、非常に辛辣かつユニークなユーモアによって、政治批判(PMRCなどの検閲政策や、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]らアメリカ右派、さらにそれらの勢力の精神的支柱である[[キリスト教原理主義]]に強く反対し、自身の作品やコンサートで選挙人登録を強く訴えていた)、社会風刺(時代時代のロックシーンにおけるファナティックな流行や、若年層の性的紊乱やドラッグ問題、市井の人間の攻撃的な行状などを揶揄した)、現代風俗(実在の地名や人名、国名や人種名、商標名などの固有名詞が頻出する)、性風俗(ゲイやSMといった過激な題材を―しばしば批判的に―取り上げることもあった)などが主な題材として扱われる。また、言葉遊びによる造語や異国語の混入、[[スラング]]やメタファーの多用された独特の言い回しも多い。実在のバンド・ミュージシャンに茶化しのために言及したり、ツアーによっては時事的な話題を盛り込んで歌詞を改作することもままあった(政治家では[[リチャード・ニクソン]]/[[スピロ・アグニュー]]やロナルド・レーガン、PMRC絡みの[[アル・ゴア]]/[[ティッパー・ゴア]]夫婦、TV宣教師では当時少女買春のスキャンダルが明るみに出たジミー・スワッガート([[:en:Jimmy Swaggart|Jimmy Swaggart]])などが明確にこきおろされている)。
 
ザッパは正規の音楽教育を受けたことはない(音大に潜り込んでいたことはある)が、独学でかなりの研鑽を積んだとみられる。ブーレーズの「ル・マルトー・サン・メートル」の本人指揮によるレコードをスコアを見ながら聴いて、演奏の不正確さに気付き、後にそれを本人に指摘した(自伝参照)というエピソードから、相当な読譜力を持っていたことが分かる。ただし、セリー(十二音音楽)やトーン・クラスターと言った、現代音楽の代表的な手法をザッパが使うことは多くはなく、自らの作曲に関してことさらに理論的な裏付けを示すようなことも行わなかった。現代音楽でもミニマル・ミュージックに対しては明確な嫌悪感を示している。こうした事実も含めてザッパの作曲法は多分に手癖なども含めた経験主義的なものであると見られ、そのためか「現代音楽界」においてザッパの名前が取りざたされることはほとんどない。
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*エキセントリックな側面が誇張して語られがちであるが、音楽への取り組みはきわめて真摯であり、古い作品をCD化する際に[[アナログ]]マスターをそのままデジタル・マスタリングするミュージシャンが大半であった中、彼は過去の作品全てを自ら[[リミックス]]・[[リマスタリング]]、時にはオーヴァーダブや編集も施している。さらには亡くなる直前の1993年に一部のアルバムのリマスタリングを行い、暫定的な決定版とした。この1993年盤は本人が数あるマスターから最終的なOKを選んだ「承認マスター」と呼ばれ、1995年以降の再発CDではこのマスターが使用されている(1998年に一部オリジナルLPマスターに再度差し替えられたものがある)。つまり同一タイトルにおいて「オリジナル・ミックスの[[レコード|アナログ盤]]」、「80年代のオリジナルCD」、「1990年UMRKリミックスCD」、「1993年マスターCD」、「1998年マスターCD」の他、LPボックス「THE OLD MASTERS BOX」等、複数のミックス・ヴァージョンが存在する勘定になる。コアなザッパ・フリークの間では複数所有する者も少なからずおり、そのミックスの差異について評価が分かれるほど手直されている。そうした真面目が故に[[海賊盤]]に対して非常に批判的だった。[[1991年]]にはマニアの間で評判の高い[[海賊盤]]を8作品選び、同じタイトル、ジャケットデザイン、更に[[リマスター]]を施して[[ライノ・エンタテインメント]]より"[[:en:Beat the Boots|Beat the Boots]]"シリーズとして発売した。翌年にはさらに別種の7作品を選別、"[[:en:Beat the Boots II|Beat the Boots II]]"として発売した。現在iTune Storeにおいて"[[:en:Beat the Boots III|Beat the Boots III]]"が発売されている。
*手元に何の楽器も持たず、空港でも五線紙を持って作曲を続けた(チャド・ワッカーマン談)ほどの作曲の鬼であった。
*生前の多作もさることながら、逝去後も毎年コンスタントに新譜がリリースされているミュージシャンでもある。彼の家の地下室には、未発表曲が収められた膨大な量のマスターテープがあると言われ、未亡人のゲイル・ザッパを中心とした遺族によって管理されている他、未だに根強いファンは勿論研究者が存在する(日本国内では大山甲日、八木康夫(ヤギヤスオ)、茂木健、大山甲日などが著名)
*[[CD]]化以降はMSI, [[ビデオアーツ]]により国内盤が発売されたが、アナログ時代は日本での認知度が低かった事もあり、国内販売されなかった作品も多い。名作の誉れ高い『[[ホット・ラッツ]]』もアナログ国内盤が発売されなかった作品の一つだった。それが「来日公演以来ファン同士のネットワークが形成され」、「それまでの奇人変人といった評価から、正統的な音楽性が評価されはじめ」<ref>『シーク・ヤブーティ』95年版ライナーノーツ([[岸野雄一]]述)より</ref>たことで、国内盤の発売が増えたという。アナログ時代の国内[[レーベル]]は[[日本グラモフォン]]、[[ビクター]]、[[ワーナー・パイオニア]]、[[CBSソニー]]、[[東芝EMI]]各社である。
*現在はほとんどが修正されているが、かつてはアルバムタイトルや楽曲の大半に珍妙な[[邦題]]が付けられていた。直訳もそれなりに多いが、正方形や三角形がジャケットに描かれたアルバムが『フランク・ザッパの○△□』と命名されたり、『No Not Now』という楽曲に『いまは納豆はいらない』という邦題が付けられるなど、視覚や原題の語感から飛躍させたような命名が目立つほか、原題と全く無関係な命名も多い。これらの命名は当時CBSソニーでザッパを担当していたディレクター、黒田日出良(渚十吾)によるものとされている<ref name="uemura" >植村和紀『洋楽日本盤のレコード・デザイン』(グラフィック社 2015年 ISBN 9784766127430 P84)</ref>また日本盤には八木康夫の解説文が寄せられ、『○△□』には「回を重ねるごとにエスカレートする超豪華解説書『[[マンコ・カパック]]の友』」が付された<ref name="uemura" />。
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*テレビ番組で特別番組を制作し、[[ウォーレン・ククルロ]]の家に突然押しかけてホームパーティーを中継するという企画をやってのけた事がある。
*親日家でもあった。生前には[[1976年]]に来日ツアーで4公演を行っただけであった。[[京都大学西部講堂]]での公演時に「雑葉」という印章を贈られており、その後アルバムジャケットにもこの印章が使われた事がある。[[東京タワー]]ビル2階にある観光名所の蝋人形館には、等身大のフランク・ザッパの蝋人形が展示されている。特設の売店には、CDから書籍まで揃っているという充実ぶりである。『[[シーク・ヤブーティ]]』収録のDancing Foolのアウトロには日本語で「キニシナーイ」というコーラスが入っているほか、『ジョーのガレージ』収録のLittle Green Rosettaには日本人のコーラス(ザッパが発音をからかうやりとりと共に)が収められている。
*大統領選挙への出馬を真剣に検討したことがる。共和党のロナルド・レーガンに強く反対していたザッパは、80年代末から90年代初頭にかけて大統領選挙への出馬を検討し、出馬の会見までおこなった<ref>http://history.rutgers.edu/.../honors...frank-zappa...president/file</ref>。だが、ザッパのガン闘病のため、出馬は実現しなかった。
*『ライヴ中、ステージに客が上がり込み「フランク・ザッパなんかより俺の方がよっぽど下品だ!」と叫びステージ上で大便をしたが、ザッパはその大便を食べた』というエピソードが有名であるが、まったくのデマである。しかし、ザッパ自身がこのエピソードを「よくできてる」と放任したため、瞬く間に事実のように広まった。
*[[聖飢魔II]]のジェイル大橋こと[[大橋隆志]]によると、自身が1987年に結成した[[キャッツ・イン・ブーツ]]がアメリカでメジャーデビュー出来たのはフランクのサポートが大きかったと語っており、アメリカ人メンバー2人が息子のドゥイージルとの繋がりがあった事からフランクにもキャッツ・イン・ブーツのデモ音源が手に渡り、そこから更にフランクのビジネスマネージャー、後にバンドのマネージャーになる人物にデモ音源が渡った事で最終的に[[EMI]]と契約に漕ぎ着ける事に成功したとコメントしている<ref>[[We ROCK/ロッキンf|ロッキンf]] 2015(サウンド・デザイナー) 80p</ref>。