「三島事件」の版間の差分

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{{Quotation|たとえこのたびの事件が、社会的になんらかの影響をもつとしても、生者が死者の霊を愚弄していいという根拠にはなりえない。また三島氏の行為が、あらゆる批評を予測し、それを承知した上での決断によるかぎり、三島氏の死はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格のものである。三島氏の文学と思想を貫くもの、 それは美的生死への渇きと、地上のすべてを空無化しようという、すさまじい悪意のようなものである。|磯田光一「太陽神と鉄の悪意」<ref name="isote"/>}}
 
[[谷口雅春]]([[生長の家]]創始者)は、明治憲法復元を唱え、その著書『占領憲法下の日本』において、三島に序文の寄稿を依頼している。また、事件に参加した古賀浩靖と小賀正義が生長の家の会員であり、三島が事件直前の11月22日(谷口雅春の誕生に当たる)に谷口宅と教団本部に会いたい旨の電話を入れている。面会が叶わず「ただ一人、谷口先生だけは自分達の行為の意義を知ってくれると思う」と遺言を残したとされる<ref>[[谷口雅春]]『愛国は生と死を超えて―三島由紀夫の行動の哲学』[[日本教文社]]、1971, pp. 2-3</ref>。谷口は後に『愛国は生と死を超えて―三島由紀夫の行動の哲学』を上梓し「この谷口だけは死のあの行為の意義を知っていてくれるだろうと、決行を伴にした青年たちに遺言のように言われたことを考えると、三島氏のあの自刃が如何なる精神的過程で行われ、如何なる意義をもつものであるかについて、私が理解し得ただけのことを三島氏の霊前に献げて、氏の霊の満足を願うことが私に負わされた義務のような気もするのである」と述べ、三島の自刃がクーデターではなく、後世の人々の為の自決であり、[[吉田松陰]]の処刑された日(旧暦の10月27日は西暦の11月25日に当たる)に合わせて計画したものであると語っている。
 
=== 葬儀・記念碑・裁判など ===