ホーム
おまかせ表示
付近
ログイン
設定
寄付
ウィキペディアについて
免責事項
検索
「楊慎」の版間の差分
言語
ウォッチリストに追加
履歴表示
編集
履歴の双方向閲覧
← 古い編集
新しい編集 →
削除された内容
追加された内容
ビジュアル
ウィキテキスト
2017年5月17日 (水) 22:32時点における版
編集
Yume149
(
会話
|
投稿記録
)
746
回編集
→知遇
:
流人
タグ
:
モバイル編集
モバイルウェブ編集
← 古い編集
2017年5月17日 (水) 22:37時点における版
編集
取り消し
Yume149
(
会話
|
投稿記録
)
746
回編集
→知遇
:
人それぞれ
タグ
:
モバイル編集
モバイルウェブ編集
新しい編集 →
10行目:
黔国公沐氏の一族は彼をできるかぎり優遇し、文芸著述の環境を整えてあげた。今も滇池のほとり、竜門と筇竹寺五百羅漢殿のあたりにひっそりと升庵祠の祭祀が続いている。
「二十一史弾詞」説秦漢、巻頭詞「臨江仙」のしらべは名高い。新都[[宝光寺]]に父子の像がたてられるほか、成都府にのこった後妻の黄
婉
峨
(母の姪)との唱和が数多くある
。黄峨は再嫁せず、隆慶改元の後まで生きた
。
== 著作 ==