「大久保忠増」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
5行目:
== 宝永噴火と藩政 ==
{{see also|伊奈忠順}}
宝永4年([[1707年]])11月の富士山噴火([[宝永大噴火|富士山噴火]]は、約2か月前の[[宝永地震|宝永南関東地震]]を契機に発生したといわれているが、小田原藩領のうち、[[足柄上郡]]と[[駿東郡]]が大打撃を受けた。忠増は、家臣柳田久左衛門に命じて被害状況を調べさせたが、忠増は老中として[[江戸]]にあり、直接指揮がままならなかったこと、小田原藩は4年前の[[元禄大地震]]の余波から立ち直れず、復興資金繰りに難渋したこともあり、藩の救済は捗らず、このため、被害の大きかった足柄上郡104ヶ村と駿東郡59ヶ村の住民は幕府に直訴におよぶ構えをみせた。そのため忠増は御宝物の[[正宗]]の太刀を売り、朝夕に食事も節制し、必要ならば自らが農民たちに代わって灰を取り除くための資金を将軍に願い出ると約束することになった<ref>鈴木理左衛門「富士山砂降り訴願記録(相模)」(『日本農書全集』第六十六巻、[[農山漁村文化協会]]、1994年)54 - 59頁。</ref>。ここに至り忠増は藩単独での復興をあきらめ、幕府に救済を願い出た。
 
翌宝永5年([[1708年]])[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]、幕府は被害の大きかった[[足柄地方]]と御厨地方(現[[御殿場市]])の6万石を[[天領]]とし、藩には代わりに[[伊豆国|伊豆]]、[[美濃国|美濃]]、[[播磨国|播磨]]のうちに代替地が与える処分が出され、早くも[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]には[[関東郡代]][[伊奈忠順]]を復興総奉行に任命し、その資金は全国から100石につき金2両という割合で高役金(臨時課税)を課して集めた48万両余を当てる一方、被災地の土地改良・河川改修の手伝普請に[[備前国|備前]][[岡山藩]]など5つの諸大名に分担せしめた。
28行目:
※参考文献:大日本近世史料「柳営補任」、児玉幸多監修・新田完三編「内閣文庫蔵・諸侯年表」東京堂出版
 
== 関連項目脚注 ==
{{Reflist}}
*[[宝永大噴火]]
 
{{小田原藩主|大久保氏|2代|1698年 - 1713年}}