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[[488年]](永明6年)、都官尚書に転じた。太子中庶子となり、左衛率を兼ねた。諧之は辞職を願い出たが、武帝(蕭賾)に許されなかった。太子中庶子のまま衛尉となった。
 
[[490年]](永明8年)、諧之は武帝の命を受けて禁兵を率いて巴東王[[蕭子響]]を[[荊州区|江陵]]に討ち、長史行事を兼ねた。官軍が蕭子響に敗れたため、諧之は敗戦の責任を問われて免官され、軍事の権限のみを代行した。まもなく再び衛尉として再起し、太子中庶子・江州中正を兼ねた。[[492年]](永明10年)、度支尚書に転じ、衛尉を兼ねた。[[492年]](永明11年)、死去した。享年は51。[[右将軍]]・[[豫州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]はといった。
 
== 伝記資料 ==