「安積澹泊」の版間の差分

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元禄13年([[1700年]])に光圀が死去すると、翌14年([[1701年]])、3代藩主[[徳川綱條]]の命により、中村顧言・栗山潜鋒・酒泉竹軒とともに『義公行実』を編集。のち[[享保]]8年([[1723年]])に、4代藩主[[徳川宗堯]]の命により、さらにこれを修訂し『常山文集』の付録として印刷した。また享保9年([[1724年]])に、『義公行実』の付録として『西山遺事』を著している。元禄14年、総裁の職は元のままに小姓頭に昇進。栗山潜鋒らとともに紀伝の稿本全般を点検、加除訂正を行った。中でも[[宝永]]年間の筆削活動は目覚ましく、そのためほとんど原型を止めなくなった箇所も多いという。
 
[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])の総裁を辞任したが、その後も彰考館にあった。享保元年([[1716年]])からは「大日本史論賛」の執筆を行う<ref name=hikae/>(同5年に完成)。論賛は史伝を記述した末に記述者が加える論評の事である。なお、後代[[文化 (元号)|文化]]6年([[1809年]])になって論賛は削除されたため、完成した現在の『大日本史』にはない。享保6年([[1721年]])新番頭列、同7年新番頭に任じられたがいずれも史館勤務は元の通りであった。[[享保]]12年からは[[徳川家康]]の伝記である『烈祖成績』<ref name=hikae/>の編集を担当(同17年完成)。享保18年(1733年)致仕。致仕後も十人扶持を与えられて史館の業務に関わることを許されており、死の直前まで紀伝稿本の校訂作業を続けた。
 
元文2年(1737年)83歳で水戸梅香の自宅にて死去した。[[明治]]35年([[1902年]])11月8日、明治政府により贈正四位。