「コンピエーニュ包囲戦」の版間の差分
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|caption=コンピエーニュ包囲戦(オーヴェルニュ作)
|conflict=[[百年戦争]]
|date=[[1430年]]
|place=[[コンピエーニュ]]([[フランス]])
|result=[[フランス王国]]軍の勝利
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'''コンピエーニュ包囲戦'''(コンピエーニュほういせん、[[英語]]: Siege of Compiègne)は、 [[1430年]]
== 背景 ==
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== 戦闘の経緯 ==
=== 包囲 ===
ブルゴーニュ派は、まずリニー伯[[ジャン2世・ド・リュクサンブール (リニー伯)|ジャン2世]]が4月4日に軍勢を率いて出立し、22日には善良公が[[ペロンヌ (ソンム県)|ペロンヌ]]を出た。また、ブルゴーニュ派と同調していたイングランド軍は、9歳の[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]の[[摂政]]を務める[[ベッドフォード公爵|ベッドフォード公]][[ジョン・オブ・ランカスター]]が[[カレー (フランス)|カレー]]にいて、イングランド王の上陸を待っていた<ref>Pernoud and Clin, p. 84.</ref>。善良公の戦略は、[[オワーズ川]]流域の諸都市を奪還するというもので、当時アングロ・ブロギニョン同盟の支配下にあった[[イル=ド=フランス地域圏|イル=ド=フランス]]と[[パリ]]の防衛を重視していたベッドフォード公もこれを支持した。シャルル7世は5月6日になってようやくコンピエーニュの戦略的重要性に気付いた<ref>Pernoud and Clin, p. 84.</ref>。
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