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|caption=コンピエーニュ包囲戦(オーヴェルニュ作)
|conflict=[[百年戦争]]
|date=[[1430年]]6[[51823]]
|place=[[コンピエーニュ]]([[フランス]])
|result=[[フランス王国]]軍の勝利
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'''コンピエーニュ包囲戦'''(コンピエーニュほういせん、[[英語]]: Siege of Compiègne)は、 [[1430年]]6[[51823]]に[[フランス]]・[[コンピエーニュ]]で起こった、[[フランス王国]]と[[イングランド王国]]・[[ブルゴーニュ公国]]連合軍の戦いである。連合軍の攻撃からコンピエーニュを守りきったフランス軍の勝利に終わったが、フランスの[[ジャンヌ・ダルク]]が郊外の小競り合いで[[ブルゴーニュ派]]の捕虜となったため、彼女が参加した最後の軍事行動になった。包囲戦自体は小規模なものだったが、[[百年戦争]]におけるフランスの救世主で最もカリスマ性のある指揮官だったジャンヌの喪失は、政治的にも軍事的にも大事件だった。
 
== 背景 ==
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== 戦闘の経緯 ==
=== 包囲 ===
[[1430年]]3月、フィリップ善良公がコンピエーニュ包囲を計画しているという情報がフランス宮廷に伝わってきた。シャルル7世の宮廷は当初[[クレルモン伯]][[シャルル1世 (ブルボン公)|シャルル]]を使者としてコンピエーニュの町に送り、町の支配権は正式にブルゴーニュにあるので、降伏して町を引き渡すように説得しようとしたが、住民らは猛反対した。同時に、町のフランス軍守備隊も防戦の準備を始めた<ref>DeVries, pp. 132 – 133.</ref>。
 
ブルゴーニュ派は、まずリニー伯[[ジャン2世・ド・リュクサンブール (リニー伯)|ジャン2世]]が4月4日に軍勢を率いて出立し、22日には善良公が[[ペロンヌ (ソンム県)|ペロンヌ]]を出た。また、ブルゴーニュ派と同調していたイングランド軍は、9歳の[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]の[[摂政]]を務める[[ベッドフォード公爵|ベッドフォード公]][[ジョン・オブ・ランカスター]]が[[カレー (フランス)|カレー]]にいて、イングランド王の上陸を待っていた<ref>Pernoud and Clin, p. 84.</ref>。善良公の戦略は、[[オワーズ川]]流域の諸都市を奪還するというもので、当時アングロ・ブロギニョン同盟の支配下にあった[[イル=ド=フランス地域圏|イル=ド=フランス]]と[[パリ]]の防衛を重視していたベッドフォード公もこれを支持した。シャルル7世は5月6日になってようやくコンピエーニュの戦略的重要性に気付いた<ref>Pernoud and Clin, p. 84.</ref>。