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秋草は富士通初の[[文科系]]出身の[[システムエンジニア]]だとされており、入社以来、一貫してシステム開発部門を歩んできた。[[公共システム]]事業に部長として携わった際には[[オーストラリア統計局]]との[[メインフレーム]]商談を成功に導いた。取締役就任後は出自であるシステム開発の経験を生かして、[[ソリューション]]ビジネスを同社の収益の柱に育てた。また、系列のSE子会社の設立にも深く関わっていたと言われている。
 
しかし、[[ITバブル]]が崩壊した事で[[ソリューション]]ビジネス中心のスタイルが裏目に出た上、社内でも[[1993年]]([[平成]]5年)に導入した[[成果主義]]の弊害面が顕著に目立ち始め、その上、これら問題に対する対処が悉く後手に回ってしまい、社長在任期間に富士通を著しい凋落業績不振に陥らせた。
 
[[2001年]](平成13年)、[[週刊東洋経済]]10月13日号上で、業績の下方修正に対する社長の責任を問われ、「業績が悪いのは従業員が働かないからだ。」という回答を行った。
このインタビューは各方面に大きな反響を呼び、一部では「'''経営の責任放棄'''」などと批判された。
 
[[2003年]](平成15年)6月、業績悪化の責任から社長を退任したもののなぜか代表取締役会長に昇進就任富士通を迷走させたまま、同社の再建は後任社長の[[黒川博昭]]に託されることとなった。
 
[[2008年]](平成20年)に代表取締役会長を退任した後も取締役相談役として[[取締役]]に留任し、[[取締役会]]を構成。