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== 出版 ==
1998年、『支那事変作戦日誌』、『大東亜戦争作戦日誌』([[芙蓉書房出版]])
 
2004年、『所謂服部グループの回想』(軍事史学第39巻第4号 軍事史学会編)
 
== 服部卓四郎との関わり ==
[[服部卓四郎]]とは戦前から上司部下の関係でつながりをもっていたが、戦後は復員省で部署は違うものの同じ場所で勤務していた。
 
この際、服部からは独立国である以上、必ず再軍備の時が来るだろうから、その研究に必要な同志の人選を頼むと任された。
 
井本は参謀本部員の[[原四郎]]や陸軍省軍事課員の[[稲葉正夫]]といった面々を誘い、同志とした。
 
その後、、服部とあわせて「三十四期の三羽烏」と称された[[西浦進]]、[[堀場一雄]]が加わり、これがいわゆる服部グループと呼ばれる集まりとなる。
 
このグループは再軍備の研究を行ったほか、極東国際軍事裁判における[[東條英機]]をはじめとしたA級戦犯の弁護資料作成なども行った。
 
特に、東條陸軍大臣秘書官だった西浦、服部、井本の三人は東條の死刑執行後、東條家に弔問し、その後も追悼法要に欠かさず参列していた。
 
朝鮮戦争が起こって戦況が悪化すると、服部グループは再軍備になった際に必要な中堅幹部として元陸軍軍人400~500名を選定し、その一部には政府から要請があれば承諾するよう働きかけるなどの活動を行ったが、最終的にこれは身を結ばなかった。
 
しかし、井本自身は[[辰巳栄一]]が率いる辰巳機関の人選により、[[1952年]](昭和27年)に警察予備隊に入隊した。
 
この時期、服部グループは「大東亜戦争全史」の編纂を行っていたが、井本自身は前述の国際軍事裁判の法廷活動や、警察予備隊の仕事、そして病にかかるなどしていたため、原稿審議の一部分に加わったのみであった。
 
その後、服部グループは史実研究所という団体を作り、[[鳩山一郎]]や[[中曽根康弘]]といった政治家や[[下村定]]、[[小沢治三郎]]といった旧陸海軍の高官と交流するなど、活発に活動していたほか、米軍や防衛庁に調査助言等を行っていた。
 
井本も史実研究所の一員として活動していたが、服部が[[1960年]](昭和35年)に死去し、その一年後に井本が自衛隊を退官すると、史実研究所の責任者として活動するようになった。
 
その後、米軍との関係が1965年(昭和40年)頃には途絶えたことや、井本自身も健康を害したことで、所蔵していた資料は[[防衛研究所|防衛研修所戦史室]]に移し、1971年(昭和46年)3月31日をもって史実研究所は解散した。<ref>井本熊男「所謂服部グループの回想」『軍事史学第39巻第4号』軍事史学会編、2004年</ref>
 
== 参考文献 ==
井本熊男「所謂服部グループの回想」『軍事史学第39巻第4号』軍事史学会編、2004年
 
== 脚注 ==