「九州平定」の版間の差分

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3月29日の軍議では、秀吉は岩石城堅固とみて、[[豊臣秀勝]]・[[蒲生氏郷]]・[[前田利長]]らを押さえとして留め、細川忠興・中川秀政・堀秀政を古処山城攻めにあてようとした。しかし、氏郷・利長は岩石城攻めを主張し、みずから攻城担当をかって出たので、秀吉は豊臣秀勝を大将に先鋒の蒲生氏郷・前田利長隊に命じて岩石城を攻撃させた。戦いは[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]にはじまり、蒲生軍が大手口から、前田軍が搦手口から岩石城を力攻めし、一日で攻略した。城兵3,000のうち約400が討死するという激しい戦闘であった<ref name=owada06/>。
 
秋月種実は、この戦闘のようすを筑前[[益富城]](福岡県[[嘉麻市]]大隈)からうかがっていたが、敗色濃厚とみて益富城を破却して放棄、兵を集中させるため本拠の[[古処山城]]に撤退した。秀吉は、古処山城攻めに5万の軍勢を送り込み、夜中に[[農民]]に[[松明]]を持たせて周囲を威嚇、さらに、翌日には秋月方が破却したはずの益富城の[[城壁]]を[[奉書紙]]を用いて1日で改修したように見せかけて秋月方の戦意を喪失させることに成功した<ref name=chro500/>。[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]、秋月種実は剃髪し、子の[[秋月種長]]とともに降伏した。このとき種実は、[[茶器]]「[[楢柴肩衝]]」と「国俊の刀」および娘竜子(後、[[城井朝房]]正室)を秀吉に差し出した。
 
岩石城が1日で陥落し、秋月種実が3日にして降伏したことは、抜群の宣伝効果をともなって戦況に決定的な影響をあたえることとなった。これ以降、それまで秀吉に敵対の構えを示していた島津方の在地勢力は戦わずして続々と秀吉に臣従したのである。事前の黒田孝高の地ならしが功を奏したとはいえ、想像を超えた秀吉の大軍に殆どの武将は強烈な印象を受け、戦意を喪失してしまったものと考えられる<ref name=owada06/>。
 
[[4月10日 (旧暦)|4月10日]]、秀吉は筑後高良山、16日には肥後隈本([[熊本県]][[熊本市]])、19日には肥後八代(熊本県[[八代市]])に到着した。このとき、肥前の[[龍造寺氏]]にあって家臣の[[鍋島直茂]]が秀吉と早くから内通していたこともあって豊臣軍に帰参した。また[[島原]]方面では[[有馬晴信]]の調略に成功しが秀吉方となった。
 
秀吉の大軍の到来に対し、高田(八代市高田)に在陣していた[[島津忠辰]]はこれを放棄して薩摩国の出水(鹿児島県[[出水市]])にまで撤退した。