「毛利斉広」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2017年5月}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 =毛利 斉広
| 画像 =Mōri Naritō.jpg
| 画像サイズ =250px
| 画像説明 = 毛利斉広像([[毛利報公会]]蔵)
| 時代 =[[江戸時代]]後期
| 生誕 =[[文化 (元号)|文化]]11年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}([[1814年]][[7月3日]])
| 死没 =[[天保]]7年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]([[1837年]][[2月4日]]){{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}
| 改名 =保三郎{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}([[幼名]]) → 崇広{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}} → 斉広
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =崇文院殿故大官令中大夫羽林次将長防国主天常誠大居士{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}
| 墓所 =[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[愛宕 (東京都港区)|愛宕]]の[[青松寺]]。萩市椿の[[大照院]]{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}
| 官位 =[[従四位|従四位下]]侍従・[[修理職|修理大夫]]{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}、[[近衛府|左近衛権少将]]{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}、大膳大夫{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}
| 幕府 =
| 主君 =
| 藩 =[[長州藩]]第11代藩主
| 氏族 =
| 父母 =父:[[毛利斉熙]]{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}、母:池上志津{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}<br />養父:''[[毛利斉元]]''
| 兄弟 ='''斉広'''、[[毛利信順|信順]]
| 妻 =[[徳川家斉]]二十女・貞惇院('''和姫'''){{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}<br />側室:本多氏(勇信院){{Sfn|時山弥八編|1916|p=124}}
| 子 =実子:[[毛利都美子|都美子]]([[毛利敬親]]正室、浄華院){{Sfn|時山弥八編|1916|p=124}}<br />養子:'''''[[毛利敬親|敬親]]'''''
| 特記事項 =
}}
 
'''毛利 斉広'''(もうり なりとう)は、[[長州藩]]の第12代藩主。第10代藩主・[[毛利斉熙]]の次男で、第11代藩主・[[毛利斉元]]の養嗣子{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}。長州藩主としては在職期間が最短の藩主である。
 
== 経歴 ==
[[萩城]]内において、斉熙と[[側室]]の池上氏(志津・花ノ井)との間に生まれる{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}。幼名として保三郎、のちに初名の{{読み仮名|'''崇広'''|たかひろ}}を名乗る{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}。[[文政]]5年([[1822年]])6月、先代藩主・[[毛利斉元]]の養嗣子となる{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}。文政13年3月([[1830年]])、実父・斉熙や養父・斉元と同様、将軍[[徳川家斉]]より[[偏諱]]を授与され{{読み仮名|'''斉広'''|なりとう}}に改名、従四位下侍従に叙任し、修理大夫と称する。しかし、天保元([[1830年]])に正室の和姫(家斉の娘)が死去する{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}
 
天保7年(1836年)9月8日に斉元が死去したため、同年12月10日に跡を継ぐが、20日足らず後の12月29日に桜田藩邸において、23歳で死去した{{Sfn|時山弥八編|1916|p=123}}
 
3歳年下の異母弟の[[毛利信順]]がいたが、斉元が生前に自身の長男[[毛利敬親|教明]]を斉広の跡継ぎに立て、斉広の娘[[毛利都美子|都美子]](当時[[数え年|数え]]5歳)と娶わせる意向を残しており、これが江戸加判役[[毛利房謙]]より公表されるに及び、老臣の衆議でこれに異議がなかったため、教明(のちの慶親、敬親)が家督を相続した。
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== 補足 ==
* 前述したように、藩主在職期間が20日足らずと歴代の中でも最短の藩主であるため、このわずかな期間に[[偏諱]]を与えられた者はいない(該当者なし)。
* [[諱]]の2文字目「広」は祖先[[大江広元]]にちなんだ毛利氏の[[通字]]の一つで、歴代藩主の中でも2代[[毛利綱広|綱広]]、4代[[毛利吉広|吉広]]、6代[[毛利宗広|宗広]]が用いている字でもあり、本来は「ひろ」と読む。斉広自身も最初は{{読み仮名|'''崇広'''|たか'''ひろ'''}}と名乗っていたが、斉広と改名する際に実父・斉熙と同じ読みとなってしまうのを避けるために読みを変更したものと思われる(かつて曽祖父の[[毛利重就|重就]]が「就」の読みを「なり」から「たか」に改めた例もある)。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===-->
{{Notelist}}
<!--=== 出典 ===-->
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
{{脚注の不足|date=2017年5月|section=1}}
*[[萩市]]史資料編纂委員会「萩市史・第1巻」([[1983年]]・萩市)
* {{オープンアクセス}}{{Cite book|和書|author=時山弥八編|date=1916|title=稿本もりのしげり|url={{NDLDC|969141/45}} 国立国会図書館デジタルコレクション|id=|ncid=BN04718592|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=萩市史編纂委員会編|date=1983-6|volume=第1巻|title=萩市史|publisher=[[萩市]]|ncid=BN01890860|id={{全国書誌番号|83049750}}|ref=harv}}{{クローズドアクセス}}[{{NDLDC|9575270}} 国立国会図書館デジタルコレクション]
 
 
{{長州藩主|12代|1836年}}