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'''四条 頼基'''(しじょう よりもと)は、[[鎌倉時代]]中期から後期にかけての[[武士]]。[[日蓮]]の有力[[布施|檀越]]。[[官位]]が[[左衛門尉]]であったので左衛門尉の[[唐名]]である[[金吾]]と称され'''四条 金吾'''とも言われる。
 
[[承久]]3年([[1221年]])の[[承久の乱]]後、父・[[四条頼員]]の代から[[北条氏]]一族の[[北条朝時|名越朝時]]・[[北条光時|光時]]父子に[[執事]]として仕え、[[北条氏 (名越流)|名越氏]]が[[信濃国]][[伊賀良荘]]の地頭となると代官として赴任した。
 
[[建長]]5年([[1253年]])から日蓮の説法に深く帰依し、[[文永]]8年([[1271年]])の[[龍ノ口法難]]では日蓮に殉死しようとした。日蓮の『[[開目抄]]』は[[佐渡島]]から鎌倉の頼基の許へ送られ、門下に広く示された。