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== 経歴 ==
文育はもとの姓を項、名を猛奴といい、はじめ[[新安郡]][[寿昌県]]に居住していた。貧家に生まれて、幼くして父を失った。11歳で数里を遊泳することができ、56尺の高さを跳ぶなど、身体能力の高さは群を抜いていた。義興郡の周薈が寿昌県の浦口戍主となったとき、猛奴を見出して養子とした。周薈が任期を終え、猛奴を連れて[[建康 (都城)|建康]]に帰ると、太子詹事の[[周捨]]に引き合わせて、新たに名を文育、字を景徳とつけてもらった。周薈の兄の子の周弘が文育に読み書き計算を教えた。文育は学問を好まず、周弘が騎射を教えると喜んだ。
 
周薈は[[司州]][[刺史]]の[[陳慶之]]と同郡の出身であり、仲も良かったため、周薈は陳慶之の下で前軍軍主となった。陳慶之は周薈に500人の兵を与えて[[新蔡郡]]の懸瓠に派遣し、白水蛮を慰労させた。白水蛮は周薈を捕らえて[[北魏]]につこうと図り、その計画が知れると、周薈は文育とともに抗戦した。文育は周薈の隊の先頭に立って戦い、1日に数十回も交戦して、その武勇は軍中でもっとも優れていた。周薈が戦死すると、文育はその遺体を奪回した。夕方に両軍が引き揚げると、文育は身に9カ所の傷を負っていた。傷が癒えると、陳慶之の許可を得て義興郡に帰り、養父の葬儀を営んだ。
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陳霸先が[[南康郡]]を出立するにあたって、文育は5000の兵を動員して水路を開通させた。侯景の部将の王伯醜が[[豫章郡]]に拠ると、文育はこれを撃破して豫章を占拠した。前後の戦功により、游騎将軍・員外散騎常侍の位を受け、東遷県侯に封じられた。
 
[[552年]](大宝3年)、陳霸先の軍が白茅湾に到達すると、文育は杜僧明とともに軍の先頭に立ち、南陵と鵲頭の諸城を平定した。姑に入って、侯景の部将の[[侯子鑑]]と戦い、これを撃破した。侯景の乱が平定されると、文育は通直散騎常侍の位を受け、南移県侯に改封され、[[信義郡]][[太守]]に任じられた。[[南丹陽郡]]太守・[[蘭陵郡]]太守・[[晋陵郡]]太守を歴任し、智武将軍・散騎常侍の位を受けた。
 
[[555年]]([[紹泰]]元年)、文育は軍を率いて[[文帝 (陳)|陳蒨]]と[[呉興郡]]で合流し、[[杜龕]]を撃破した。[[556年]](紹泰2年)、[[会稽郡]]に進軍して太守の[[張彪]]を襲い、その郡城を奪った。陳蒨が張彪の襲撃を受けると、城北香巌寺に駐屯していた文育のところに逃げこみ、ともに柵を立てて防備した。ほどなく張彪が攻めてくると、文育は奮戦して撃破し、張彪の乱を平定した。