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==由緒・歴史==
===西牟田築城===
[[嘉禎]]年中(1235-1238)1238年)、[[西牟田家綱|西牟田彌次郎家綱]](行西)が、鎌倉幕府の命を受けて[[伊豆国]][[三島]]より[[筑後国]][[三瀦郡]]西牟田村に[[地頭]]として赴任し、西牟田城を築いたとされる<ref>杉山正仲『校訂筑後志』(本荘知新堂)248頁</ref><ref>矢野一貞『校訂筑後国史』中巻(名著出版)113~116頁</ref>。
 
===大友氏の筑後支配===
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===繰り返される反乱===
西牟田氏は、斯かる大友氏の支配に対し、しばしば叛旗を翻している。[[天文 (元号)|天文]]3年(1534年)9月には、[[西牟田親毎|西牟田播磨守親毎]]・[[西牟田親氏|親氏]]父子が他の筑後国衆とともに大友氏に背き、その大軍と戦って討死している。また、天文19年(1550)(1550年)にも、[[西牟田鎮豊]]が反大友の軍事行動を起こし、鎮圧されている<ref>吉永正春『筑後戦国史』(海鳥社)17~18頁</ref><ref>江﨑龍男『筑後武士』(芸文堂)120~121頁</ref>。
 
===龍造寺に属し、生津城へ移る===
[[天正]]6年([[1578]](1578年)、肥前を平定した佐賀の[[龍造寺氏]]が筑後へ進出してくると、西牟田鎮豊は大友氏の傘下を離れて、龍造寺方に参陣したが、大友氏からはさらに激しい攻勢に晒されるようになった。
 
天正7年(1579年)、西牟田鎮豊は新たに堅固な本拠地として[[生津城]]を築き、そこに移った。