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[[高砂部屋]]の第17代横綱[[小錦八十吉_(初代)|小錦八十吉]]が独立して創設した部屋で、その弟子の山泉の[[小錦八十吉_(2代)|小錦]]が継承し、大関[[清水川元吉]]、関脇[[若葉山鐘]]たちを育てたが、清水川は[[追手風部屋]]を創設して独立したこともあって、昭和18年3月に師匠が亡くなると部屋は閉鎖、弟子たちは双葉山道場(後の[[時津風部屋]])に預けられた。
 
その後、二十山の名跡は時津風部屋の関脇[[青ノ里盛]]が継承していたが、所属していた[[立田川部屋]]の師匠、元横綱[[鏡里喜代治]]が年を迎えた際に、立田川を引き継ぐことになったので、二十山の株は、時津風一門を離れた。
 
そのあとをついだ、出羽海一門の[[三保ヶ関部屋]]の元[[大関]][[北天佑]]が、平成6年([[1994年]])五月場所後の6月1日に弟子6人を連れて創設した。ロシア出身の[[白露山佑太]]を幕内に昇進させ、これからの発展が期待されたが、[[2006年]][[6月23日]]に二十山が死去。これに伴い所属力士11人と[[呼出]]1人が翌日付で、兄弟子だった横綱北の湖の率いる[[北の湖部屋]]に移籍し、部屋は閉じられた。