「東寺真言宗」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Resto1578 (会話 | 投稿記録)
-tmp (可読性向上のためにナビゲーションテンプレートを下部貼り付けタイプのみに変更しました。)
14行目:
 
==沿革==
東寺真言宗の歴史は、教王護国寺(東寺)の開創に始まる。[[823年]][[弘仁]]14年)に教王護国寺は[[嵯峨天皇]]から空海に下賜され、[[真言密教]]の根本道場となった。
 
以降、[[江戸時代]]まで、教王護国寺は真言宗の長者寺としてその役割を果たしてきたが、[[明治時代]]に入ると、[[明治政府]]の宗教政策からにより、真言宗は、[[古義真言宗]]・[[新義真言宗]]各派が合同することとなった。管長を古義派(り、[[金剛峯寺1879年]](明治12年)に教王護国寺)と新義派([[智積院]]・[[長谷寺]])の4寺院から互選することとなり、東寺は管長選出する四本山の一つなったして合同する
 
管長を古義派([[金剛峯寺]]・教王護国寺)と新義派([[智積院]]・[[長谷寺]])の4寺院から互選することとなり、教王護国寺は管長を選出する四本山の一つとなった。
しかし、この状態も長く続かず分裂を繰りかえした。[[1901年]](明治34年)に教王護国寺は、山階派・小野派・泉涌寺(古義真言宗)とともに連合し、[[1907年]](明治40年)には、[[真言宗東寺派]]の派名を公称した。
 
しかし、反発も多く、多数の寺院が離脱していくなかで[[1901年]](明治34年)に教王護国寺は、[[真言宗山階派]]・[[真言宗善通寺派|真言宗小野派]]・[[真言宗泉涌寺派]]とともに四派聯合を形成していたものの、最終的にはそれも分裂し、[[1907年]](明治40年)、教王護国寺を総本山とする[[真言宗東寺派]]として独立し、真言宗は解体された。
[[太平洋戦争]]にともなう、政府の宗教政策により再び、古義真言宗派と新義真言宗派の合同が図られ、大真言宗に統合させられた。戦後、大真言宗から、1946年([[昭和]]21年)2月に真言宗東寺派と旧称に復して独立した。[[1952年]](昭和27年)9月3日に[[宗教法人]]認証。
 
[[19631941年]]([[昭和]]3816)に)3月教王護国寺を中心とした古義真言派の形態に復帰することを目的に、・新義真言宗東寺系の宗からが政府の政策によって合同し東寺真言宗が分派独立することとなった。[[1974年]](昭和49年)10月25日に認証された
 
[[太平洋戦争]]にともなう、政府の宗教政策により再び、古義真言宗派と新義真言宗派の合同が図られ、大真言宗に統合させられた。戦後、大真言宗から、[[1946年]][[昭和]]21年)2月に真言宗東寺派と旧称に復して独立した。[[1952年]](昭和27年)9月3日に[[宗教法人]]認証。
 
しかし、[[1963年]](昭和38年)に、教王護国寺を中心とした宗派の形態に復帰することを目的に、真言宗東寺派から、東寺真言宗が分派独立することとなった。[[1974年]](昭和49年)10月25日に認証された。
 
== 教王護国寺長者(東寺真言宗管長)歴代==