「ヘレン・ツィレ」の版間の差分

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== 概要 ==
ヨハネスブルグ出身。ランド・デイリーメールの政治記者からケープタウンの教育管理者を経て下院議員。ケープタウンの市議会で[[アフリカ民族会議]]を抑えて民主同盟を第1党に導き、市長に就任。翌年から民主同盟党首。2008年、[[ワールド・メイヤー]]に選出された。この間、黒人女性であるリンディエ・マジブコを議会党首<ref>議会において党を代表する役職で、通常は党首が兼任するが、党首に就任したツィレは国会議員とならずケープタウン市長の立場を選択したため、別個に議会党首を選出した。</ref>に起用するなど、「白人中間層の政党」と見なされていた民主同盟の非白人からの支持、特に黒人層への支持拡大に務めた<ref>{{Cite web |url= http://d-arch.ide.go.jp/idedp/ZAF/ZAF201400_402.pdf|title= 2014年南アフリカ総選挙-民主同盟の支持拡大-|accessdate= 2015-5-12|last= |first= |author= 佐藤千鶴子|authorlink= |coauthors= |date= 2014|year= |month= |format= PDF|work= アフリカレポート|publisher= [[アジア経済研究所]]|page= 48|quote= |language= |doi= |ref=}}</ref>。2015年5月、8年間務めた党首の座を退いた<ref>{{cite news |title= 南アの最大野党・民主同盟に初の黒人党首 34歳のマイマネ氏|author= |newspaper= [[AFPBB]]|date= 2015-5-11|url= http://www.afpbb.com/articles/-/3048049|accessdate=2015-5-12}}</ref>。
 
2017年3月、ツイッター上で[[植民地主義]]について、独立した司法、輸送インフラ、水道など負の面ばかりではなかったとツイートした。植民地主義を肯定するものだとして非難され、身内の民主同盟から停職処分を受けた。(ただし西ケープ首相には留まった)
 
== 略歴 ==
両親はドイツ系[[ユダヤ人]]で、[[ナチス・ドイツ]]の迫害を逃れて南アフリカへ移住した。母のミラ・ツィレは、白人女性からなる反アパルトヘイト運動の活動家であった。
 
== 関連項目 ==