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以後山城は伊勢氏の統治下に置かれたが、鎮圧から翌年の明応3年([[1494年]])に畠山氏の家臣が勝手に南山城に侵入、翌年にも同様の事件が発生、明応5年([[1496年]])に政元の家臣[[赤沢朝経]]が畠山氏の家臣を追い払うまで南山城に居座った。相次ぐ事態に伊勢氏は単独で対処出来ず山城での権力を低下させ、反対に政元の影響力が増していった。翌明応6年([[1497年]])に足利義材の支持者の[[畠山尚順]]が挙兵、危機的状況に対処するため、10月に政元の家臣[[香西元長]]を下郡守護代に就任させ、伊勢貞陸は守護職を保持するという変則的な人事が行われた。この決定は伊勢氏と細川氏の妥協であり、以後香西元長は山城で権勢を振るうようになっていった。
 
== 研究・史料 ==
[[大正]]元年([[1912年]])に[[三浦周行]]が論文「戦国時代の国民議会」でこの一揆を取り上げて以後、広く知られるようになった。
 
== 参考文献 ==
*[[山田康弘 (歴史学者)|山田康弘]]「山城国衆弾圧事件とその背景」(所収:『戦国期室町幕府と将軍』([[吉川弘文館]]、2000年) ISBN 978-4-642-02797-7 第二章)
 
== 関連項目 ==
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*[[月行事]]
 
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[[Category:山城国]]