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Leonidjp (会話 | 投稿記録)
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その後、13-40節において、むしろ「空」「無自性」こそが、あらゆる縁起・存在・果報を基礎付けているのであり、「空」「無自性」を否定・批判する論敵達こそがむしろ諸々の縁起・存在・果報を破壊しているのだという主張が続く。
 
=== 倶舎論・成実論・大毘婆沙論 ===
[[倶舎論]]巻二二では、瓶や衣や水や火は、形が壊れたり、慧によって分析して見ることで要素に分けられてしまえば、「瓶・衣・水・火」などと名づけられるべきものが無いのであるが、[[世間]]では仮にそれらのものに名を与えて「瓶がある」などと言うという例を挙げ、このように世間一般の常識において「誤りのない真実」とされることを世俗諦とし、これに対して、いわゆる[[五位]]七十五法として説かれる存在の構成要素としての'''[[法 (仏教)|法]]'''は、出世間的な真理(仏教の真理)として存在を認められるものであるから、「これらの法がある」と説くことを勝義諦とする<ref name="sb1097-1100" />。[[成実論]]巻十一では、仮に名が与えられるだけで実体のないものを俗諦とし、'''色'''などの法と[[涅槃]]とを真諦とする<ref name="sb1097-1100" />。[[阿毘達磨大毘婆沙論|大毘婆沙論]]巻七七では、世間で常識的に知られている事柄や、世間で便宜的に約束として決めている道理などを世俗諦とし、無漏の聖智によって見とおされた真実の真理を勝義諦としている<ref name="sb1097-1100" />。