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鄧小平は朱鎔基の行政能力と実行力を評価し、[[1991年]][[4月8日]]の第7期[[全国人民代表大会]]第4回会議で[[中華人民共和国国務院|国務院]]副総理に、[[1992年]]の第14回党大会において三階級特進で中央政治局常務委員に抜擢した<ref>[[天児慧]]『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史11>(講談社、2004年)、306ページ。</ref><ref>朱鎔基は1987年10月の第13回党大会で中央候補委員に選ばれた。当時の中央委員は175人、中央候補委員は110人で、序列91位の候補委員(得票順)である朱鎔基は中央委員会全体の序列では266位。1991年に副総理に、1992年の第14回党大会で中央委員に選出され、その直後の第14期1中全会で政治局常務委員に就任し、三階級特進を果たした。[[曽慶紅]]が政治局候補委員(第15期)から政治局常務委員(第16期)に二段跳びしたことはあるが、三段跳びは珍しい。</ref>。
 
[[1993年]][[3月29日]]、[[李鵬]]に代わって総理就任が予想されるなか、経済担当序列1位[[国務院常務副総理]](第一副首相)に命され<ref>http://www.npc.gov.cn/wxzl/gongbao/2000-12/28/content_5002917.htm 中華人民共和国主席令(八届第2号){{Zh icon}}</ref>、経済を担当した。朱鎔基の経済政策に期待されたことは改革開放の推進と経済の高成長の持続であったが、一方でこの頃から顕著になってきた「経済過熱」を冷却し、物価上昇の抑制を図ることも求められた<ref>天児慧、前掲書、309ページ。</ref>。朱は経済成長を維持するために外資導入を奨励し、健全な国債を大量に発行する一方、地方が乱発する不良債権の抑制・整理に着手、地方政府や国有企業に対して投資を控えさせた。さらに銀行改革にも乗り出し、[[7月2日]]、李貴鮮[[中国人民銀行]]行長を解任して自ら兼務し、乱発される債券の発行、無担保の銀行融資などを強く取り締まって、「過熱経済」の軟着陸を図った<ref>天児慧、前掲書、311ページ。</ref>。
 
[[1997年]]9月の第15期党中央委員会第1回全体会議(第15期1中全会)で政治局常務委員に再任され、[[1998年]][[3月17日]]、国務院総理に就任した。朱鎔基は前年の全国金融工作会議と中央経済工作会議で表明した国有企業改革・金融改革・政府機構改革を、「[[2000年]]までに実現すべき三大改革」と位置づけて、経済改革と国務院改革に着手した。朱は経済の開放政策をさらに加速させることで外資を取り込み、また「外圧」を利用して改革を推進しようと考えた<ref>天児慧、前掲書、316ページ。</ref>。[[2001年]]11月には、中国の[[世界貿易機関]]加盟を実現させた。同年3月の全人代において朱は政府報告を行い、「国有企業改革の達成目標は基本的に実現し、金融改革の歩調は速まっている」と改革の成果を主張している。ただし、国有企業改革で多くの失業者を出したことなどについては批判も多かった。一方の政府機構改革では、国務院の省庁再編を行うとともに、汚職に対して厳しく臨んだ。[[遠華密輸事件]]はその内の1つである。