削除された内容 追加された内容
Leonidjp (会話 | 投稿記録)
Leonidjp (会話 | 投稿記録)
→‎『中論』における記述: 中村元『龍樹』からの引用を正確なものに直す。出典付加。
18行目:
 
==== 『中論』における記述 ====
{{出典の明記|date=2017年6月17日 () 0010:1412 (UTC)|section=1|title=この節で唯一の出典である中村元『龍樹』の当該ページ(379-380)は中論の本文の現代語訳が書いてあるだけですので、本文に対する解説部分はすべて殆どが無出典です。}}
ナーガルジュナ(龍樹)の二諦への言及は、『[[中論]]』の24章においてなされている。
 
まず、『中論』においてそれまでに(帰謬法を通じて)提示された「[[空 (仏教)|空]]」思想に対する、論敵達による批判が、24章冒頭の1-6節において示される。すなわち、「一切が「空」であるならば、釈迦の説いた[[四聖諦]]も[[四向四果]]も存在しないことになり、[[三宝]](仏法僧)も、世俗の一切の慣用法をも(すなわち、全ての区別・秩序・規則を)破壊することになってしまう」という批判である。
 
それに対して、ナーガールジュナが7節以降に反論を開始する<ref name="n379" />まずナーガールジュナは7節において、論敵達は」が何であにおけ効用(動機)としてそのものと、空の意義を知らないと述べる(7節)<ref name="n379" />。そして8-12節において、二諦説が提示される。
{{quoteQuotation|
*(8) 2つの真理(二諦)に依して、仏陀もろもろの[[ブッダ]]は法(教え)を説いた。の二つの真理と世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理である。
*(9) この2つの真理の区別を知らない人々は、仏陀ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである
*(10) 世俗の表現に依拠せずに存しないでは究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、[[ニルヴァーナ([[涅槃]]を体得することはできない。
*(11) 不完全に見られた[[ (仏教)|空]]慧の鈍いものを害する。あたかも不完全に捕らえられた[[ヘビ|]]あるいは未完成の[[呪術|咒術]]のごとくである
*(12) それ故にその鈍い者達ものどもによってよく領解されないことを考えて、聖者(仏陀ブッダ)が教えを説示しようとする心はんだ<ref>この一文は、釈迦が悟りに至った後、説法(転法輪)を開始するまでに、「この深遠な内容を理解できる者がこの世にいるのか、凡夫を害するといけないから説かない方がいいのではないか」と躊躇した「[[梵天勧請]]」のエピソードを指しているとも解釈できるし、「凡夫を害するといけないから、釈迦は深遠な真理(勝義諦)を世俗の表現でそのまま直接示そうとはせず、世俗の立場での真理(世俗諦)としての[[四聖諦]]・[[四向四果]]・[[三宝]](仏法僧)等を、方便として説いてきた」という主張として解釈することもできる。{{要出典|date=2017-06-07|title=}}</ref>。
|『中論』24:8-12<ref name="n379">『龍樹』 [[中村元]] [[ 『龍樹』 講談社、講談社学術文庫]] pp379、2005年7月、379-380頁。</ref>}}
 
その後、13-40節において、むしろ「空」「無自性」こそが、あらゆる縁起・存在・果報を基礎付けているのであり、「空」「無自性」を否定・批判する論敵達こそがむしろ諸々の縁起・存在・果報を破壊しているのだという主張が続く。