「アンドレイ・バキチ」の版間の差分

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[[ロシア帝国軍]]では大佐まで昇進した。[[ロシア革命]]後、1918年9月~11月、人民ポヴォルガ軍のオレンブルク・コサック支隊長となる。1918年11月~1919年3月、独立ウラル軍のコサック集団と[[シズラニ|スィズラン]]歩兵師団長。1919年3月~8月、第4オレンブルク軍団長となったが、同年4月~6月のオレンブルクの戦いで敗れた。1919年9月~1920年5月、[[ボリス・アンネンコフ]]将軍のセミレーチエ軍の指揮の下、[[アレクサンドル・ドゥトフ]]将軍のオレンブルク軍の「北部集団」指揮官となる。
 
[[セミレチエ({{lang地方|ru|Семиречье}}, 現在のカザフスタンの[[ジェティスセミレチエ]]で[[赤軍]]に敗れた後、1920年5月27日、ドゥトフ将軍等と共に[[中国]]に渡り、抑留された。ドゥトフ将軍が暗殺された後、1921年3月7日、在華オレンブルク軍の指揮を引き受けた。中国当局との軋轢を避けるために、部下の同意なく、部隊を「独立軍団」に改称し、同年4月、[[モンゴル]]に移った。
 
モンゴル遠征中に部隊は消耗したが、残余部隊は、シャラ・スメ市を奪取した。バキチは、[[ロマン・ウンゲルン]]将軍のアジア軍団と接触し、彼の指揮下に入った。ウンゲルンと共同でソ連に対して襲撃を行い、1921年10月、赤軍の第13騎兵旅団を撃破した。その後、残余部隊と共にモンゴルに逃亡。