「若松勉」の版間の差分

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[[1987年]][[4月21日]]の対中日戦で、守備の際に[[マーク・ブロハード]]と衝突して負傷する。この怪我の影響で、持病の腰痛が悪化して守備につくことが難しくなったため、[[関根潤三]]監督は若松を[[代打]]専門で起用するようになった。この年には代打打率.444(36打数16安打)を記録。以後引退までの3年間、代打の切り札として活躍し、通算代打成績は打率.349(258打数90安打)12本塁打70打点という好成績であった。
 
[[1989年]]限りで[[現役引退]]。ヤクルト一筋19年、42歳まで現役を全うした。通算[[打率]].31918は歴代2位であり、日本人選手としては歴代最高記録である(4000打数以上対象、NPBの最高記録は[[レロン・リー]]の.320)。現役時代に付けていた背番号「1」は、若松の引退後、「[[野球界の永久欠番|永久欠番]]に」との署名が多く集まり、以降背番号「1」は[[池山隆寛]]・[[岩村明憲]]・[[青木宣親]]・[[山田哲人]]といったチームの顔となる生え抜き選手のみに着用が許される番号となった。若松は将来の監督候補として球団社長から期待されており、その意向を受けた関根からレクチャーを受けていた。そのため[[松園尚巳]]オーナーによる[[長嶋茂雄]]監督招聘構想が完全に頓挫した8月頃には引退と同時に次期監督への就任が濃厚と噂されたが、球団内には「すぐ監督してもうまくいかない」と危ぶむ声<ref>同年オフ、1986年オフに限りで引退してすぐ監督に就任した[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]の[[有藤通世]]が成績不振で引責辞任していた(初年度から5位→6位→6位と低迷)で引責辞任てい実例があった。</ref>もあり、また本人も難色を示したため話は立ち消えとなり、代わりに元[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]監督の[[野村克也]]が新監督に就任した<ref>プロ野球回顧録(6)引退特集 引き際の美学 2017年1月号、[[ベースボールマガジン]] 別冊、P70</ref>。
 
=== 引退後 ===