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堀尾青史『年譜宮沢賢治伝』により加筆。賢治との関わりは冒頭節にも記載した方がよい。
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'''関 豊太郎''' (せき とよたろう、[[1868年]]([[慶応]]4年[[6月 (旧暦)|6月]]) - [[1955年]]([[昭和]]30年)[[3月20日]])は、日本の[[土壌学|土壌学者]]。[[黒ボク土]](火山灰土壌)の組成とその改良方法研究に貢献した。また、[[盛岡高等農林学校]]教授時代に、[[宮沢賢治]]を指導したことでも知られる
 
==経歴==
[[東京]]([[江戸]])[[市谷]]に生まれる。1892年[[帝国大学農科大学]]農学科を卒業。
 
[[福岡県立修猷館高等学校|福岡県立尋常中学修猷館]]教諭、[[広島師範学校]]教諭、鳥取県立農学校(現・[[鳥取県立倉吉業高等学校]]教諭、[[宮城県農業短期大学|宮城農学校]]教諭、[[山形県立庄内農業高等学校|山形県立庄内農業学校]]教諭、[[広島高等師範学校]]教授を経て、1905年[[盛岡高等農林学校]]([[岩手大学]]農学部の前身)の[[土壌学]]の教授に就任。1910年から1912年にかけてドイツ、フランスへ留学し、1917年農学博士の学位を得る。
 
1920年[[農林省農事試験場]]に移り、土性に関する試験を担当。1926年「土壌・分類及命名並ニ土性調査及作図ニ関スル調査報告」([[農学会]])を委員長としてまとめた。1927年に[[日本土壌肥料学会]]が設立されるとその初代会長に就任し、1942年退職。1920年より[[東京農業大学]]教授も務めている<ref name="horiop124"/>
 
== 人物 ==
詩人で童話作家の[[宮沢賢治]]は、盛岡高等農林学校在学中に、関豊太郎のもとで土壌学を学び大きな影響を受けた。賢治の自伝的作品といわれる『[[グスコーブドリの伝記]]』に登場するクーボー大博士は、恩師の関豊太郎がモデルとされる。
狷介な性格で、盛岡高等農林学校時代には校長の佐藤義朝に研究費予算の不足を訴えて埒があかないと研究をやめると言って席を立ったり、板書を消し忘れた前のコマの教員に「教室へいってみろ。きょうは僕は授業はよした」と頬をはたくなどの奇行をなしたといわれる<ref name="horiop124">堀尾、1991年、pp.124 - 126</ref>。こうした人柄から「ライオン先生」というあだ名で呼ばれた<ref name="horiop124"/>。
 
== 宮沢賢治との関わり ==
宮沢賢治は、盛岡高等農林学校農学科第二部(のち農芸化学科)に在学中、部長だった関のもとで土壌学を学ぶ<ref name="horiop124"/>。関は前記のように気むずかしい人物だったが、賢治のことは評価し、良好な関係だった<ref name="horiop124"/>。関は賢治を助教授として学校に残そうとしたり(賢治が辞退)、[[稗貫郡]]からの土性調査に研究生だった賢治を推薦するなどした<ref name="horiop124"/>。
 
賢治は晩年の1931年、東北採石工場から嘱託になるよう求められた際に、農事試験場に移っていた関にその可否を問う往復はがきを送り、関は「小生の宿年の希望が実現しかかったのを喜びます」という添え書きとともに受託すべしという回答を返している<ref>堀尾、1991年、pp.379 - 380</ref>。賢治の自伝的作品といわれる『[[グスコーブドリの伝記]]』に登場するクーボー大博士は、恩師の関豊太郎がモデルとされる{{要出典|date=2017-06}}。
 
== 脚注 ==
<references />
 
==参考文献==
*『事典 日本の科学者-科学技術を築いた5000人』[[日外アソシエーツ]]、2014年
*[[堀尾青史]]『年譜 宮沢賢治伝』[[中央公論新社|中央公論社]]《[[中公文庫]]》、1991年
 
{{DEFAULTSORT:せき とよたろう}}
[[Category:日本の農芸化学者]]
[[Category:岩手大学の教員]]
[[Category:東京農業大学の教員]]
[[Category:日本の中等教育の教員]]
[[Category:東京大学出身の人物]]
[[Category:武蔵国の人物]]
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[[Category:1868年生]]
[[Category:1955年没]]
[[Category:宮沢賢治|人せきとよたろう]]