「関豊太郎」の版間の差分

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宮沢賢治は、盛岡高等農林学校農学科第二部(のち農芸化学科)に在学中、部長だった関のもとで土壌学を学ぶ<ref name="horiop124"/>。関は前記のように気むずかしい人物だったが、賢治のことは評価し、良好な関係だった<ref name="horiop124"/>。関は賢治を助教授として学校に残そうとしたり(賢治が辞退)、[[稗貫郡]]からの土性調査に研究生だった賢治を推薦するなどした<ref name="horiop124"/>。
 
賢治は晩年の1931年、東北採石工場から嘱託になるよう求められた際に、農事試験場に移っていた関にその可否を問う往復手紙(返信用はがきを同封)を送り、関は「小生の宿年の希望が実現しかかったのを喜びます」という添え書きとともに受託すべしという回答を返している<ref>堀尾、1991年、pp.379 - 380</ref>。賢治の自伝的作品といわれる『[[グスコーブドリの伝記]]』に登場するクーボー大博士は、恩師の関豊太郎がモデルとされる{{要出典|date=2017-06}}。
 
== 脚注 ==