「ノート:定」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Leonidjp (会話 | 投稿記録)
→‎2017/06/09-1: 問題点の加筆
編集の要約なし
31行目:
* この問題の部分(上述の灰色引用部分)では、入定したり出定したりする主体が何であるかは全く書かれてませんが、出典とされる荒牧典俊訳の本の当該頁ではその主体は「かの菩薩」という者であることが明示されてます。ですから、主体を特定しない一般論として「第○地で入定/出定する」というような表現も不可能でしょう。すくなくとも、この荒牧典俊訳の本だけを出典とする場合は。--[[利用者:Leonidjp|Leonidjp]]([[利用者‐会話:Leonidjp|会話]]) 2017年6月9日 (金) 23:41 (UTC)
指摘から1週間以内にこの問題群に対処がなされなければ、書き換えるか削除します。書き換えや削除に連動して文脈が変わらざるを得ないときは、他の部分にも変更が及ぶ可能性があります。--[[利用者:Leonidjp|Leonidjp]]([[利用者‐会話:Leonidjp|会話]]) 2017年6月9日 (金) 23:41 (UTC)
 
::訳注者は、九次第の第八である非想非非想処定の次の滅尽定と混同してしまったのであろう。'''九次第の滅尽定が第六にくるはずのないことは自明である'''。私もまた、十地経を読んだ20年ほど前に、滅尽定がなぜここに出てくるのか著しく混乱したもののひとりである。十地経は発心+九次第定の経典であると思い込んだからである。しばらくしてそうではく、それとは別で、その後に続くあくまで十波羅蜜の経典であることを理解し、仏教の信じ難いほどの壮大なフレームにただただ途方に暮れ、慌わてふためいたのであった(リベラルアーツ的にみれば、詳述するかどうかの違いがあるだけでオリエント起源の宗教に共通のものなのだが)。フレームを理解してもなお、なぜここに滅尽定が出現するのか不明のままであったのだが、なんのことはない、平川彰・編纂の『仏教漢梵大辞典』によれば、滅尽定には全く意味の異なるサンスクリット原語があって、同じく「滅尽定」という漢訳があてられてしまっていたのである。独自研究はむしろ訳注者の方ではなかろうか。--[[特別:投稿記録/118.83.141.75|118.83.141.75]] 2017年6月10日 (土) 16:11 (UTC)
 
=== 2017/06/09-2 ===
ページ「定」に戻る。