「金鵄勲章」の版間の差分

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功四級改正の件
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[[File:Emperor Taishō.jpg|right|thumb|200px|陸軍式の正装に功一級金鵄勲章の正章と副章を着用した[[大正天皇]]]]
[[File:Kinshi4.jpg|right|thumb|150px|功四級金鵄勲章(綬に綵花が付されない1937年10月以前の旧制式品)]]
'''金鵄勲章'''(きんしくんしょう)は、かつて制定されていた[[勲章 (日本)|日本の勲章]]の一つ。日本唯一の武人勲章とされ、武功のあった[[日本軍|陸海軍]]([[大日本帝国陸軍|陸軍]]・[[大日本帝国海軍|海軍]])の[[軍人]]および[[軍属]]に与えられた<ref>[[#毎日新聞社|毎日新聞社]] p68</ref>。'''金鵄章'''ともいう。
 
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{{-}}
== 概要 ==
[[File:Kataoka Shichiro.jpg|thumb|right|200px|功一級金鵄勲章(大綬および功一級副章)を佩用した[[海軍大将]]当時の[[片岡七郎]]。片岡は将官時代の日露戦争時の戦功で功一級を受章した。このほか、佐官時代に日清戦争時の戦功で功四級を受章している]]
[[File:Mitsuru Ushijima.jpg|thumb|right|200px|功二級金鵄勲章および、功五級金鵄勲章を併佩する[[中将|陸軍中将]]当時の[[牛島満]]。牛島は尉官時代の[[シベリア出兵]]時に功五級を、将官時代の日中戦争時の戦功で功二級を受章した]]
金鵄勲章は、[[1890年]](明治23年)の[[紀元節]](2月11日)に、[[明治天皇]]が発した「金鵄勲章創設ノ詔勅」によって創設され、同日に「金鵄勲章ノ等級製式及佩用式」(明治23年2月11日[[勅令]]第11号)によってその製式等が定められた。「武功抜群ナル者」を、「功一級」から「功七級」まで7等級の'''功級'''に叙した上で、勲章を授与した。
 
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[[日清戦争]]開戦後の[[1894年]](明治27年)9月29日には、「金鵄勲章年金令」(明治27年勅令第173号)が制定されて、「功級ニ応シ終身年金」を賜ることとなった(令1条)。
 
金鵄勲章の初の授与者は、日清戦争中に[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]として[[広島大本営]]に至るも、[[1895年]](明治28年)1月15日に薨去した[[陸軍大将]]の[[有栖川宮熾仁親王]]である。熾仁親王は翌16日に[[大勲位菊花章頸飾]]と併せて功二級金鵄勲章を受章した<ref>『[[官報]]』第3469号 「叙任及辞令」 1895年1月24日</ref>。生存者授与としては、1895年8月5日に功二級金鵄勲章を大勲位菊花章頸飾と併せて受章した、陸軍大将当時の[[小松宮彰仁親王]]が初となる<ref>『官報』第3631号 「授爵・叙任及辞令」 1895年8月6日。</ref>。功一級金鵄勲章の初授与は日清戦争ではなく[[日露戦争]]からであり、[[1906年]](明治39年)4月1日に[[山縣有朋]]ら17名の陸海軍[[大将]]([[元帥 (日本)|元帥]]陸軍大将および元帥海軍大将を含む)が受章している。
 
昭和16年勅令第726号「金鵄勲章併佩ニ関スル件」により、金鵄勲章は当時の日本の勲章の中で唯一、先に授与された功級の低い物と後に授与された功級の高い同じ勲章の併佩が許されていた。
{{quotation|金鵄勲章ヲ有スル者更ニ同級ノ金鵄勲章ヲ賜ハリタルトキハ之ヲ併佩スベシ<br>2 金鵄勲章ヲ有スル者更ニ上級ノ金鵄勲章ヲ賜ハリタルトキハ前ニ賜ハリタル金鵄勲章ヲ併佩スルコトヲ得}}
その後、同種の上級勲章を受けた者は、前に授与された勲章を返還する旨を定めた「勲章還納ノ件」(明治22年勅令第38号)は、昭和48年10月1日政令287287号「勲章還納の件を廃止する政令」により廃止されている。
 
[[宮中席次]]において、功級は同じ数字の[[勲等]]よりも上位にあったため、その運用中は最も上位に佩用するものとされていた。
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== 意匠 ==
[[File:Order of the Golden Kite 1st and 2nd class plaque.jpg|right|thumb|200px|功二級金鵄勲章(功一級金鵄勲章副章)]]
金鵄勲章は神武天皇が東征のみぎりに金色の霊鵄が弓にとまり、長髄彦の軍勢がそれに目が眩んで降参したという逸話に基づいている。赤色[[七宝]]の旭光の上に金色の霊鵄を配し、下に大神宮の盾、矛、剣を配した物である。功級により[[七宝焼き|七宝]]の有無、金[[鍍金]]の範囲が異の違いどがあるが、ほとんどの等級で意匠は同一。裏面の装飾は無い。功二級の正章(功一級の副章)のみ、斜めの旭光部分に黄色の七宝が用いられている。
 
綬は[[浅葱色]]と呼ばれる鮮やかな緑色を織地に白の双線が配されている。
 
功四級に関して、1937年10月には類似する功五級との区別を明確にするため(其ノ章ニ於テ金銀ノ差アルモ章及綬ノ大キサ、形、色トモ同一ニシテ之ニ近接注視スルニ非サレハ判別極メテ困難ナリ)、昭和12年勅令第577号「明治23年勅令第11号金鵄勲章ノ等級製式佩用式中ヲ改正ス」により、勲四等旭日章および瑞宝章の例にも倣い、綵花(円形の飾り。ローゼット)を綬(小綬)に付すように改正されている。同時に(旧制式品は)当分の内は従前の綬をもって佩用することも許されている。
 
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File:Order of the Golden Kite 7th Class 02.JPG|功七級金鵄勲章。右上は平服用の円型[[略綬]]
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File:Shimamura Hayao.jpg|功二級金鵄勲章(左上)及び同副章(喉元)を佩用した海軍大将当時の[[島村速雄]]
File:Prince Fushimi Sadanaru.jpg|功三級金鵄勲章を喉元に佩用した陸軍中将当時の[[伏見宮貞愛親王]]
Image:Higashikuni-no-miya Wedding 1943.jpg|功四級金鵄勲章を胸元に佩用した陸軍大尉当時の[[盛厚王]]。功四級は綬に綵花が付される1937年10月以降の新制式品
File:Osami Nagano.jpg|功五級金鵄勲章を胸元に佩用した海軍大将当時の[[永野修身]]
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=== 功一級金鵄勲章受章者 ===
功一級金鵄勲章受章者は計42人(陸軍27人・海軍15人)である。また、大将が大半であるが[[中将]](死後特進を含む)にも5人贈られている。陸海軍[[少将]]に対して功一級授与の前例がなかったが、[[山口多聞]]・[[有馬正文]]の両少将(死後中将に特進)は特旨を以って授与された。表記中の各階級・爵位は最高位のもの。<ref>[[#岩倉・藤樫|岩倉・藤樫]] p202</ref>
 
==== 陸軍軍人 ====