「毛利敬親」の版間の差分

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* 敬親が藩主に就任した頃、長州藩は財政難に苦しんでいた。敬親はそれをよく知っていたため、木綿服を着て質素な振る舞いを見せながらお国入りをしたため、民衆に感激されたという([[中原邦平]]の[[忠正公勤王事跡]]){{Sfn|朝倉|三浦|1996|p=1013}}。
* 藩政改革では人材育成に尽力し、家柄や年齢にこだわらずに幕末の長州藩から[[高杉晋作]]などの優秀な人材を輩出させた。11歳年下で下級武士の息子である[[吉田松陰]]の才を評価して重用し、自ら松陰の門下となったエピソードは、松陰の秀才ぶりと同時に敬親の人柄を示すものとしても語られることが多い。敬親は松陰を「儒者の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催させるが、松陰の話を聞いていると自然に膝を乗り出すようになる」と言ったという([[玖村敏雄]]の「吉田松陰」){{Sfn|朝倉|三浦|1996|p=1014}}。敬親の人柄は長州志士からも慕われており、彼らが維新後に敬親を顕彰して建てた石碑などが、旧長州藩内に多く現存する。
* 家臣の意見に対して異議を唱えることがなく、常に「うん、そうせい」と返答していたため「そうせい侯」と呼ばれ、一部に政治的には賢明な藩主ではなかったとの評価もあり、[[幕末の四賢侯]]にも数えられていない。「{{読み仮名||(こう}})」は、諸侯、すなわち大名のこと。
* 藩政は家臣任せだったが、重要段階では必ず自ら決断した。元治元年(1864年)9月25日の午前4時から藩の命運を賭けた会議が開かれた。このとき[[長州征討|第1次長州征伐]]で幕府軍が長州に迫っており、藩内では{{読み仮名|侃侃諤々|(かんかんがくがく}})の論戦が行なわれた。昼頃、小姓が「食事が出来ました」と述べると、[[井上馨|井上聞多]]が「藩の運命、ひいては国家の運命がかかっている大事な会議に食事をしている時間などないはず。早く結論を出すべき」とさえぎった。午後7時になっても結論は出なかったが、家臣の意見はほぼ出尽くしていた。敬親はこのときになって初めて口を開き、「我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ」と述べるとその場を後にしたという([[井上伯伝]]。忠正公勤王事跡){{Sfn|朝倉|三浦|1996|p=1014}}。
* [[山内豊範]]が養女の婿という関係で[[山内容堂|山内豊信]]と交友があった。ある時、敬親の近侍が豊信(容堂)の隠居部屋を訪れると欄干に「酔擁美人楼」という額がかかっていた。当時の大名としては珍しいくらいくだけた雰囲気に、近侍は感心して敬親に話した。すると「こういう言は酒が飲みたくてもできず、美人を抱きたくても抱く余裕の無い者が好んで口にするものである。容堂はいやしくも24万石の太守で酒佳人は望み次第なのに、わざわざそんな額をかかげて人に見せるのは、自ら豪傑を装うものだ」と敬親は述べたという(『[[涙余集]]』){{Sfn|朝倉|三浦|1996|p=1014}}。
* 慶応4年(1868年)閏4月14日、[[木戸孝允]]から版籍奉還を促された。全国の諸大名を納得させるために毛利家が率先して模範を示す必要があったからであるが、敬親は了承した。木戸は感涙して退出しようとすると、敬親は「待て」と呼び止め、「今は戦乱の世の中だから人々は気が荒立っている。これほどの変革を行なうとどういう事が起こるかわからないから、(木戸が)京都に行った上で、その時機を見計らってくれるように。」と注意した。木戸はそれを聞いて敬親に改めて礼を述べ、旧主が恐ろしく聡明であることを感じ取ったという([[木戸孝允文書]]。忠正公勤王事跡)([[中原邦平講演]]。忠正公勤王事跡){{Sfn|朝倉|三浦|1996|p=1014}}([[中原邦平講演]]。忠正公勤王事績)<ref name="忠正公勤王事績">中原邦平講演 776頁。</ref>。