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この火災で東は[[河原町]]・[[木屋町]]・[[大和大路]]まで、北は[[上御霊神社]]・[[鞍馬口通]]・[[今宮御旅所]]まで、西は[[智恵光院通]]・[[大宮通]]・[[千本通]]まで、南は[[東本願寺]]・[[西本願寺]]・[[六条通]]まで達し、御所・二条城のみならず、[[仙洞御所]]・京都所司代屋敷・[[京都町奉行|東西両奉行所]]・[[摂関家]]の邸宅も焼失した。幕府公式の「罹災記録」(京都[[町代]]を務めた古久保家の記録)によれば、京都市中1967町のうち焼失した町は1424、焼失家屋は3万6797、焼失世帯6万5340、焼失寺院201、焼失神社37、死者150だったという。ただし死者に関しては公式記録の値引きが疑われ、実際の死者は1800はあったとする説もある。
[[光格天皇]]は御所が再建されるまでの3年間、[[聖護院]]を[[行宮]](仮御所)とし、[[恭礼門院]]は[[妙法院]]、[[後桜町上皇]]は[[青蓮院]]([[青蓮院|粟田御所]])にそれぞれ移った。後桜町院の生母青綺門院の仮御所となった[[知恩院]]と青蓮院の間に、幕府が廊下を設けて通行の便を図っている。
 
 
この大火に[[江戸幕府]]も衝撃を受け、急遽[[老中]][[松平定信]]を京都に派遣して[[朝廷]]と善後策を協議した。また、この直後に[[裏松固禅]]の『[[大内裏図考證]]』が完成し、その研究に基づいて古式に則った御所が再建されることになるが、これは財政難と[[天明の大飢饉]]における民衆の苦しみを理由にかつてのような壮麗な御所は建てられないとする松平定信の反対論を押し切ったものであり、憤慨した定信は[[京都所司代]]や[[京都町奉行]]に対して朝廷の新規の要求には応じてはならないと指示している([[東京大学史料編纂所]]所蔵「御所々御入用筋書抜」四及び松平定信『[[宇下人言]]』)<ref>藤田覚『近代政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年) ISBN 978-4-642-03353-4 第四章「寛政内裏造営をめぐる朝幕関係」</ref>。また朝廷の動向が世間の注目を集めるようになり、[[尊号一件]]などの紛争の遠因となった。