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[[1920年]](大正9年)7月公開の『白菊物語』から[[映画芸術協会|映画藝術協會]]を名乗り、日本初の芸術映画プロダクションとして十指に近い製作活動を行う。これに刺激され、[[松竹キネマ]]、[[大正活映]]などが、「新しい映画製作」を標榜して続々と世に出てくることとなった<ref>『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社)</ref>。その『白菊物語』は、[[イタリア]]のロンチ商会の依頼により同国への輸出を目的として製作され、[[吾妻光]](後の[[大仏次郎]]夫人)を起用<ref>「白菊物語」(コシーナ新書) ISBN 978-4-904620-14-4 C0274</ref>。[[1921年]](大正10年)、[[松竹蒲田撮影所]]に招かれて『愛の骸』を監督するが、[[7月7日]]に大阪で公開されたものの、東京では上映禁止となった。また、次に製作した『不滅の呪』は未完に終わった。
 
その後も、[[1922年]](大正11年)に桑野桃華プロダクションで『噫!祖国』を撮り、[[1923年]](大正12年)には当時の配給提携先であった[[帝国キネマ]]で『父よ何処へ』を製作する。一方、映画芸術協会では興行的不振が続き、折から[[関東大震災]]も発生したため、[[1924年]](大正13年)公開の『自然は裁く』を最後に製作活動を停止した。[[1926年]](昭和元大正15年)、『少年鼓手』が最後の監督作品となり、その後作品を発表する機会は失われた。残した作品はすべて[[サイレント映画]]だった。
 
映画理論家としての活動はその後も継続し、映画雑誌『国際映画新聞』(1927年 - 1940年)に執筆参加している(同誌20号「不燃性フィルム問題」など)<ref>「日本映画学会会報 第7号(2007年2月号)」ページ内の板倉史明「[http://jscs.h.kyoto-u.ac.jp/kaihou07.html 映画史が日常の亀裂からこぼれ落ちてくる]」の記述による。</ref>。[[1918年]](昭和3年)