「ノート:定」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
92行目:
::::>>世の中、色んな「人が有り」ますから。「復(また)か」も日本語の日常語になってますし。それが「若復有人」でしょう。
::::{{コメント}} それだけだと、繋げると「またか人が有り」となるのだけど、「若復有人」の4文字をあなたはそう読んでいるということでよろしいんですか? 若の字はその読み方に入ってませんが、どうなってますか?--[[利用者:Leonidjp|Leonidjp]]([[利用者‐会話:Leonidjp|会話]]) 2017年6月21日 (水) 07:58 (UTC)
 
:::::両方ともだいたいそんなところです。リベラルアーツは枠組みの方を重視しますので。後者は"若"を入れると、「若(も)し復(また)かという人が有って」といった具合です。部派の経典によると、釈迦は死ぬ前に「善なるものを求めて出家した」と語ったことになっていますが、リベラルアーツの立場からみると、大乗仏教の特に浄土教などは、仏道修行に引き込むことが果たして善なることなのかというアンチテーゼを潜ませているとしか思えないところがありますし。何かと批判されるインドのラジニーシというグルは、死ぬ前に側近の弟子たちに「こんな馬鹿馬鹿しいことに引き入れてしまって本当に申し訳ないことをした。許して欲しい」と言ったそうです。私はそのグルの方に何かしら正直さのようなものを感じてしまいます。--[[特別:投稿記録/118.83.135.128|118.83.135.128]] 2017年6月21日 (水) 19:18 (UTC)
 
=== 2017/06/04 ===
ページ「定」に戻る。