「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
文献追加して加筆
タグ: サイズの大幅な増減
編集の要約なし
175行目:
ルノワールは、[[1875年]]初め、『婦人と2人の娘』の肖像画の依頼を1200フランで受けた。このことがきっかけで、競売場{{仮リンク|オテル・ドゥルオ|en|Hôtel Drouot}}での競売会を思い付き、モネ、シスレー、[[ベルト・モリゾ]]を誘って、同年3月24日、競売会を開いた。ルノワールは、20点を出品した。参加者の嘲笑を浴び、結果は芳しくなかったが、デュラン=リュエルは、ルノワールの2点を含む18点を購入している。また、収集家で出版業者の{{仮リンク|ジョルジュ・シャルパンティエ|fr|Georges Charpentier}}は、ルノワール3点を購入している<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 106-08)]]。</ref>。税官吏{{仮リンク|ヴィクトール・ショケ|fr|Victor Chocquet}}も、競売会を見て、ルノワールに妻の肖像画を依頼した。こうしてルノワールとショケの間には友情が生まれ、ルノワールはショケをセザンヌやモネに紹介した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 109-10)]]。</ref>。シャルパンティエ夫妻もルノワールの重要なパトロンとなり、ルノワールは、シャルパンティエの家で、[[ギ・ド・モーパッサン]]、[[エミール・ゾラ]]といった文学者や、各界の名士、後に絵のモデルを務める女優ジャンヌ・サマリーとも知り合った<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 81)]]。</ref>。
 
並行して、1875年のサロンにも応募したが、落選した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 110)]]。</ref><ref group="注釈">[[#ディステル|ディステル (1996: 48)]] は、1875年にサロンに応募した確証はないという。</ref>。
 
この頃、ルノワールは、絵の売上げが増えてきたことで、サン=ジョルジュ通りのアトリエのほかに、[[モンマルトル]]のコルトー通りにも庭付き一軒家のアトリエを借りることができた。そこで、『[[ムーラン・ド・ラ・ギャレット (ルノワールの絵画)|ムーラン・ド・ラ・ギャレット]]』の制作に取り掛かった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 106, 108)]]、[[#木村|木村 (2012: 159)]]。</ref>。サン=ジョルジュ通りのアトリエには、相変わらず、リヴィエール、{{仮リンク|エドモン・メートル|fr|Edmond Maître}}、[[テオドール・デュレ]]、ヴィクトール・ショケといった友人たちが集まった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 275)]]。</ref>。
188行目:
[[1877年]]、'''第3回印象派展'''が開かれた。カイユボットが中心となって推進し、ドガ、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、モリゾ、セザンヌが賛同した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 126)]]。</ref>。ルノワールは、モネ、ピサロ、カイユボットとともに展示委員を務めた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 131)]]。</ref>。ルノワールが出品した21点の中でも、『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』は特に注目を集めた。[[ムーラン・ド・ラ・ギャレット]]は、モンマルトルの丘の中腹にある舞踏場で、庶民の憩いの場所であった。巨大な作品であったため、アトリエから舞踏場まで、友人たちがキャンバスを運んだという。美術批評家{{仮リンク|ジョルジュ・リヴィエール (美術批評家)|fr|Georges Rivière (critique d'art)|label=ジョルジュ・リヴィエール}}は、ルノワールの勧めにより、第3回展参加者らを紹介する小冊子『印象派』を刊行した。リヴィエールは、その中で、『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』について、「この作品は、サロンを賑わす芝居がかった物語画([[歴史画]])に匹敵する現代の真の物語画である」と述べた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 131-32, 268-69)]]。</ref>。この絵はカイユボットが買い取ってくれたが、全体的には展覧会の売れ行きは不調であった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 145)]]。</ref>。
 
第3回印象派展最終日の1877年5月28日、オテル・ドゥルオで、カイユボット、ピサロ、シスレーとともに競売会を開いたが、その成果も芳しくなかった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 145-46)]]。</ref>。そうした中、シャルパンティエ夫妻のほかに、実業家[[ウジェーヌ・ミュレ]]、医師[[ポール・ガシェ]]、作曲家[[エマニュエル・シャブリエ]]などの愛好家の支援が頼みであった<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 59-60)]]。</ref>。
 
マネやドガら、カフェ・ゲルボワの常連は、カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌで飲むことが増えた。グループ展のメンバーには、パリを離れる者が多かったが、パリに残ったルノワールは、サン=ジョルジュ通りとモンマルトルのアトリエの間にカフェがあったこともあり、頻繁に顔を出した。ルノワールは、この頃、工芸品への興味を持っており、カフェでも、19世紀に美しい家具や時計を制作できる人がいないことに文句を漏らしていた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 287, 291)]]。</ref>。
208行目:
その年の4月には、ドガが中心となって第4回印象派展が開かれたが、ドガの主張により、サロンに応募する者は参加させないこととされ、展覧会の名称も「独立派(アンデパンダン)展」とされた。サロンに応募していたルノワールは参加せず、セザンヌや[[アルマン・ギヨマン]]も同様の理由で参加しなかった。モネも、当初サロン応募に傾いていたが、カイユボットの説得によって参加を決めた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 150-52)]]。</ref>。
 
その年の6月、シャルパンティエ夫妻が、創刊した「{{仮リンク|ラ・ヴィ・モデルヌ|de|La Vie moderne (Zeitschrift)}}」誌のギャラリーで、ルノワールのパステル展を開いた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 187)]]。</ref>。これと併せて、弟エドモンが、「ラ・ヴィ・モデルヌ」誌に、兄の作品を包括的に紹介した記事を載せた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 307)]]。</ref>。
 
1879年、ルノワールは、モデルをしていた女性マルゴを病気で亡くし、落ち込んでいた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 307)]]。</ref>。同年夏、シャルパンティエを通じて知り合った友人の収集家ポール・ベラールが[[ディエップ (セーヌ=マリティーム県)|ディエップ]]近くのヴァルジュモンに持つ地所を訪れ、親しく交友するようになった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 307)]]。</ref>。ヴァルジュモンからパリに戻った頃、サン=ジョルジュ通りの大衆食堂で、お針子をしていた女性{{仮リンク|アリーヌ・シャリゴ|es|Aline Charigot}}と出会った。アリーヌは、ルノワールの絵のモデルをするようになり、同棲を始めた<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 50)]]。</ref>。しかし、ルノワールは、労働者階級出身のアリーヌとの交際を周囲にはひた隠しにしていた<ref>[[#木村|木村 (2012: 168)]]。</ref>
252行目:
1883年4月には、デュラン=リュエルが{{仮リンク|マドレーヌ大通り|en|Boulevard de la Madeleine}}に新しく開いた画廊で、ルノワールの個展が開かれた。初期作品から近作まで約70点の中には、数多くの代表作が含まれ、印象派としてのルノワールを回顧する本格的な展覧会となった<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 129-30)]]。</ref>。デュラン=リュエルは、これと並行して海外での売出しを図り、[[ロンドン]]のニュー・ボンド・ストリートの画廊で開いた印象派の展覧会に、ヴェネツィアの風景画や『ブージヴァルのダンス』を含むルノワール9点を展示した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 345)]]。</ref>。
 
同年(1883年)12)晩夏には、英領[[ジャージー]]、[[ガーンジー]]を訪れた<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 89)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 130)]]。</ref>。12月、モネとともに、新しいモティーフを探しに、地中海沿岸への短い旅に出た。モネは、この旅行について、「ルノワールとの楽しい旅は、なかなか素晴らしかったのですが、制作するには落ち着きませんでした。」と述べている。2人の関心が変化したこともあり、かつてのように共同制作から成果を得る手法は難しくなったことを示している<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 349)]]。</ref>。ポール・ベラールの別荘に招かれてその娘たちを描いた『ヴァルジュモンの午後』を制作したが、ベラールは、ルノワールの新しい画風を好まず、この後注文をやめてしまった。そのほかにも多くのパトロンが離れ、この時期ルノワールの絵は全く売れなくなってしまった<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 132-35)]]。</ref>。
 
[[1885年]]3月、アリーヌとの間に、後に俳優となる長男{{仮リンク|ピエール・ルノワール|en|Pierre Renoir}}が生まれた<ref>[[#木村|木村 (2012: 170)]]。</ref>。その後、母子の健康のためと経済的理由から、一家は、[[ジヴェルニー]]に近い{{仮リンク|ラ・ロシュ=ギュイヨン|en|La Roche-Guyon}}に移った<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 61)]]。</ref>。この地から、デュラン=リュエルに宛てて、「私は昔の絵の柔らかい優美な描き方を、これから先再び取り入れていくことにしました。……新しさは全然ありませんが、18世紀の絵画を引き継ぐものです。」と書いている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 350)]]。</ref>。同年秋、妻アリーヌの故郷{{仮リンク|エッソワ|en|Essoyes}}を初めて訪れ、その後もこの地を気に入って度々訪れている<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 144)]]。</ref>。
258行目:
デュラン=リュエルは、[[1886年]]4月、[[ニューヨーク]]で「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開き、ルノワールの作品38点もその中に含まれていた。この展覧会は、アメリカの収集家が印象派に関心を持ち始める契機となった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 232)]]。</ref>。同じ年、最後のグループ展となる第8回印象派展が開かれたが、画商[[ジョルジュ・プティ]]の国際美術展に参加を決めていたモネ、ルノワールは参加しなかった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 235)]]、[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 47)]]。</ref>。また、モネとともに、[[ブリュッセル]]の[[20人展]]にも参加した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 377)]]。</ref>。
 
1886年頃から、[[ベルト・モリゾ]]がパリの自宅で友人らを招いて夜会を催すようになったが、ルノワールはその常連客となった。また、モリゾを通じて、詩人[[ステファヌ・マラルメ]]と知り合い、親交を深めた<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 102-03)]]。</ref>。
1887年までにかけて、それまでに制作した女性裸体画の集大成として『大水浴図』を制作した。ルノワールは、この作品のためにデッサンや習作を重ねた。作品の中には、明確な輪郭線となめらかな表面の部分と、筆触を残して色彩を強調した部分とが混在している<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 58-59)]]。</ref>。彼は、この作品を1887年のジョルジュ・プティの展覧会に出品した。ピサロは、「彼の試みは理解できます。同じところに留まっていたくないのは分かりますが、線に集中しようとしたために色彩への配慮がなく、人物が1人1人ばらばらです。」と評したが、一般大衆の評価はむしろ好意的だった。[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]もこの作品を高く評価した。ルノワールは、デュラン=リュエルに、「私は、大衆に認めてもらえる一段階を、小さな一歩ではありますが、進んだと思っています。」と書いている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 389-90)]]。</ref>。ただ、『大水浴図』には買い手がつかなかった<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 142)]]。</ref>。
 
[[ファイル:Les grandes Eaux (Versailles) (9669899561).jpg|thumb|right|180px|[[ヴェルサイユ宮殿]]の噴水を飾る{{仮リンク|フランソワ・ジラルドン|en|François Girardon}}の浅浮き彫りから、『大水浴図』の着想を得たという<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 98)]]。</ref>。]]
1887年までにかけて、それまでに制作した女性裸体画の集大成として『大水浴図』を制作した。ルノワールは、それまでの制作方法と異なり、この作品のためにデッサンや習作を重ねた。作品の中には、明確な輪郭線となめらかな表面の部分と、筆触を残して色彩を強調した部分とが混在している<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 58-59)]]、[[#ディステル|ディステル (1996: 98)]]。</ref>。彼は、この作品を1887年のジョルジュ・プティの展覧会に出品した。ピサロは、「彼の試みは理解できます。同じところに留まっていたくないのは分かりますが、線に集中しようとしたために色彩への配慮がなく、人物が1人1人ばらばらです。」と評したが、一般大衆の評価はむしろ好意的だった。[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]もこの作品を高く評価した。ルノワールは、デュラン=リュエルに、「私は、大衆に認めてもらえる一段階を、小さな一歩ではありますが、進んだと思っています。」と書いている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 389-90)]]。</ref>。ただ、『大水浴図』には買い手がつかなかった<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 142)]]。</ref>。
 
[[1888年]]初めには、[[エクス=アン=プロヴァンス]]の{{仮リンク|ジャス・ド・ブッファン別荘|en|Bastide du Jas de Bouffan}}にセザンヌを訪れ、一緒に制作した。ルノワールは、この年、激しい神経痛に見舞われるようになった。再び自分の作品に不満を持つようになり、美術批評家の{{仮リンク|ロジェ・マルクス|fr|Roger Marx}}に「私は、自分がこれまでに行ってきた全てを駄目だと感じており、それが展示されているのを見るのは、私にとって最も辛いことです。」と書き、[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]への展示に難色を示している<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 393)]]。</ref>。
270 ⟶ 273行目:
 
=== 評価の確立(1890年代) ===
[[ファイル:Renoir à Montmartre vers 1885.jpg|thumb|left|150px|「霧の館」の石段に座るルノワール(1895年頃)<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 108-09)]]。</ref>。]]
[[1890年]]には、[[レジオンドヌール勲章]]の授与を打診されたが、辞退している<ref>[[#木村|木村 (2012: 171)]]。</ref>。また、この年、7年ぶりにサロンに出品し、これを最後にサロンから引退した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 393)]]。</ref>。この年、アリーヌと正式に結婚した<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 62)]]。</ref>。同年頃、ルノワール一家は、モンマルトルの丘の{{仮リンク|ジラルドン通り|fr|Rue Girardon}}にある「ラ・ブルイヤール(霧の館)」に引っ越した<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 63)]]。</ref>。
 
1890年代初頭には、農作業をする女性や、都会の女性の牧歌的な情景を好んで描いた。そこでは、1880年代のようなはっきりした輪郭線はないが、かといって印象派の時代とも違い、人物がしっかりしたボリューム感を持っている。裸婦も好んで描いた<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 145)]]。</ref>。
 
[[1892年]]、美術局長官アンリ・ルージョンから、[[リュクサンブール美術館]]で展示すべき作品の制作依頼を受け、ピアノを演奏する女性を描いた油彩画5点、パステル画1点を集中的に制作した。これには、詩人[[ステファヌ・マラルメ]]、美術批評家ロジェ・マルクスの働きかけがあった。油彩画5点のうち、現在オルセー美術館に収蔵されている作品が、4000フランで政府買上げとなったもので、全体が暖かい色調で統一されている<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 66)]]、[[#ディステル|ディステル (1996: 111)]]。</ref>。同じ年、デュラン=リュエル画廊でルノワールの回顧展が開かれ、好評を博した<ref>[[#木村|木村 (2012: 172)]]。</ref>。この頃、歯科医ジョルジュ・ヴィオー、仲買商人フェリックス=フランソワ・ドポー、劇場経営者{{仮リンク|ポール・ガリマール|fr|Paul Gallimard}}など新しい愛好家も増えてきた。ルノワールは、同じ1892年、ポール・ガリマールに誘われて[[マドリード]]に旅行し、[[プラド美術館]]で[[ディエゴ・ベラスケス]]の作品に感銘を受けた[[#賀川|賀川 (2010: 150-51)]]。</ref>。
 
[[1894年]]、アリーヌとの間に、後に[[映画監督]]となる二男[[ジャン・ルノワール]]が生まれた<ref>[[#木村|木村 (2012: 173)]]。</ref>。この年、アリーヌの遠縁の女性{{仮リンク|ガブリエル・ルナール|en|Gabrielle Renard}}が、ルノワールの家のメイドとして働き始め、ジャンの世話をするだけでなく、ルノワールの絵のモデルも務めた。1896年の『画家の家族』には、「ラ・ブルイヤール」の庭先に、長男ピエールとその母親アリーヌ、幼いジャンとそれを支えるガブリエル、隣家の少女が勢揃いしているところが描かれている<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 62)]]。</ref>。
280 ⟶ 284行目:
1894年2月、カイユボットが亡くなったが、カイユボットは、その[[遺言]]で、マネや印象派の作品68点を[[リュクサンブール美術館]]に、後に[[ルーヴル美術館]]に収蔵すべく[[遺贈]]しており、その遺言執行者としてルノワールを指名していた。そのため、ルノワールは、この遺言実現のため奔走することになった。しかし、保守的な美術界や世論は、コレクションの受入れに反対し、大きな論争となった。結局、[[1896年]]、コレクションの一部がリュクサンブール美術館に収蔵されることで妥協が成立した<ref>[[#木村|木村 (2012: 171)]]。</ref>。ルノワールの作品は8点中6点が受け入れられた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 404)]]。</ref><ref group="注釈">リュクサンブール美術館に受け入れられたルノワールの作品は、『ぶらんこ』、『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』、『陽光の中の裸婦』などであった。[[#賀川|賀川 (2010: 155)]]。</ref>。
 
[[ファイル:Essoyes ateiier Renoir.jpg|thumb|right|150px|エッソワにあるルノワールのアトリエ。]]
[[1897年]]、[[自転車]]から落ちて右腕を骨折し、これが原因で慢性[[関節リウマチ]]を発症した。その後は、療養のため冬を南フランスで過ごすことが多くなった<ref>[[#木村|木村 (2012: 173)]]。</ref>。[[1899年]]、友人の画家ドゥコンシーの勧めで、[[カーニュ=シュル=メール]]のサヴルン・ホテルに滞在し、この町に惹かれるようになった<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 70)]]。</ref>。そして、パリ、エッソワ、カーニュの3箇所を行き来するようになった<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 178-79)]]。</ref>。
 
[[1900年]]、[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万国博覧会]]の「フランス絵画100周年記念展」にルノワールの作品11点が展示された<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 158)]]。</ref>。同年8月、レジオンドヌール勲章5等勲章を受章した<ref>[[#木村|木村 (2012: 172)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 158)]]。</ref>。これも同じ年、[[ベルネーム=ジューヌ画廊]]で大規模な個展を開催した。ベルネーム=ジューヌ兄弟は、1890年代初めから、積極的に印象派の作品を扱い、ルノワールとも親交を築いており、1901年と1910年にはルノワールがベルネーム=ジューヌの家族の肖像画を描いている<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 120-21)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 158)]]。</ref>。
 
[[1901年]]、エッソワで、アリーヌとの間に、三男クロードが生まれた<ref>[[#木村|木村 (2012: 173)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 170)]]。</ref>。その頃、リューマチで階段を上がるのも難しくなったことから、モンマルトルの{{仮リンク|コーランクール通り|fr|Rue Caulaincourt}}に移った<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 65)]]。</ref>。
308 ⟶ 313行目:
[[1919年]]2月、[[レジオンドヌール勲章]]3等勲章を受章した<ref>[[#木村|木村 (2012: 176)]]、[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 251)]]。</ref>。その年、[[ルーヴル美術館]]が『シャルパンティエ夫人の肖像』を購入し、ルノワールは、美術総監に招かれ、自分の作品が憧れの美術館に展示されているのを見ることができた<ref>[[#木村|木村 (2012: 172-73)]]。</ref>
 
同年(1919年)12月3日、カーニュのレ・コレットで、肺充血で亡くなった<ref>[[#木村|木村 (2012: 176)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 196)]]。</ref>。息子ジャンの証言によれば、ルノワールは、死の数時間前、花を描きたいからと言って筆とパレットを求め、これを返す時、「ようやく何か分かりかけてきたような気がする。」とつぶやいたという<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 131)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Pierre-AugusteRenoir-1905-Terrace at Cagnes.png|『カーニュのテラス』1905年。油彩、キャンバス、46 × 55 cm。[[ブリヂストン美術館]]。
359 ⟶ 364行目:
{{Quotation|私には何の規則も方法もありません。〔中略〕私は、キャンバスの上で、その肉体が生き生きと、打ち震えるように輝く色を見出さなければなりません。今では、全てを説明するように求められますが、説明できてしまうような絵は、芸術ではありません。〔中略〕美術作品は、あなたを捉え、あなたをそれ自体で虜にし、あなたを感動させるものでなければなりません。それは、芸術家が情熱を表すための手段なのです。それは、芸術家からほとばしり出て、あなたを彼の情熱へと誘う流れです。}}
 
=== 市場での高騰影響と評価 ===
==== 生前 ====
ルノワールは若い時貧窮に苦しみ、1875年には、1点100フランで肖像画を描かせてもらったが、それすら良い仕事であった。『桟敷席』は、1875年にようやく425フランで売れた。オテル・ドゥルオでの競売でも、『ポンヌフ』が300フランで売れたのが最高で、あとは最低額の50フランであった<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 102-03)]]。</ref>。
 
[[1892年]]にデュラン=リュエル画廊で開いた個展が成功してから、ようやく経済的に安定するようになった。若い画家たちからも、大きな関心を寄せられた。1890年代に独自の様式を生み出したルノワールは、レジオンドヌール勲章を授与されたりに対し、[[1904年モーリス・ドニ]]大回顧展が開かれた、「ルノワールは、自分の感情やあらゆる自然や夢を、自分なしての技法で表現する。彼は自らの歓喜の目で巨匠女性しての地位花から成る見事な花束確立作り出した。」と評した<ref>[[1907年#ディステル|ディステル (1996: 106-07)]]、[[メトロポリタン美術館#賀川|賀川 (2010: 150)]]が、『シャルパ。</ref>。[[アリ・マティエ夫人とその子どもス]]は、「セザンヌに次いで、ルノワールは、私たち3500ポンド、潤いに欠けた純然たる抽象化から救っている。」と語り、[[パブロ・ピカソ]]は、ルノワールを「法王」と呼んだという空前の高値で購入し。ルノワールは、彼ら若手画家たちに敬愛され、影響を与えた<ref>[[#瀬木賀川|瀬木賀川 (19992010: 104184-85)]]。</ref>。
 
ルノワールは、晩年、レジオンドヌール勲章を授与されたり、[[1904年]]には大回顧展が開かれたりして、巨匠としての地位を確立した。[[1907年]]、[[メトロポリタン美術館]]が、『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』を3500ポンドという空前の高値で購入した<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 104)]]。</ref>。フランス国内だけでなく、アメリカ、ドイツ、イタリア、ロシアなどで、新作・旧作のルノワール展が次々開催された。[[1912年]]には、ドイツの批評家[[ユリウス・マイヤー=グラーフェ]]による図版付き研究書が出版された<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 126-27)]]。</ref>。
ルノワール死後も高騰は続き、1895年に300ポンドだった『舟遊びをする人々の昼食』は、1923年には20万ドル(5万ポンド以上)となった。1950年代には、概ね1点3万ポンド前後で取引されたが、時々、10万ポンドに迫る取引が現れた。そして、[[1968年]]、実業家{{仮リンク|ノートン・サイモン|en|Norton Simon}}によって『学士院と芸術橋』が64万5834ポンド(155万ドル)で競落されるという記録が生まれた。1970年代には、美術市場の帝王として君臨するようになり、数多くのセールで、最高位を保ち続けた。1980年代には更に高騰して、[[サザビーズ]]や[[クリスティーズ]]で数百万ドルから1000万ドル台(数億円から十数億円)の落札が相次いだ。[[1990年]]5月15日には、[[大昭和製紙]]の[[齊藤了英]]がニューヨーク・クリスティーズで[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]の『[[医師ガシェの肖像]]』を史上最高値の7500万ドル(114億6000万円)で落札し、その2日後の17日、ニューヨーク・サザビーズでルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を7100万ドル(108億8430万円)で落札したことが大きな話題となった<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 104-09)]]。</ref>。
 
==== 影響死後 ====
ルノワール死後も作品の高騰は続き、1895年に300ポンドだった『舟遊びをする人々の昼食』は、1923年には20万ドル(5万ポンド以上)となった。1950年代には、概ね1点3万ポンド前後で取引されたが、時々、10万ポンドに迫る取引が現れた。そして、[[1968年]]、実業家{{仮リンク|ノートン・サイモン|en|Norton Simon}}によって『学士院と芸術橋』が64万5834ポンド(155万ドル)で競落されるという記録が生まれた。1970年代には、美術市場の帝王として君臨するようになり、数多くのセールで、最高位を保ち続けた。1980年代には更に高騰して、[[サザビーズ]]や[[クリスティーズ]]で数百万ドルから1000万ドル台(数億円から十数億円)の落札が相次いだ。[[1990年]]5月15日には、[[大昭和製紙]]の[[齊藤了英]]がニューヨーク・クリスティーズで[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]の『[[医師ガシェの肖像]]』を史上最高値の7500万ドル(114億6000万円)で落札し、その2日後の17日、ニューヨーク・サザビーズでルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を7100万ドル(108億8430万円)で落札したことが大きな話題となった<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 104-09)]]。</ref>。
ルノワールは、特に晩年の円熟期、若い画家たちから大きな関心を寄せられた。1890年代に独自の様式を生み出したルノワールに対し、[[モーリス・ドニ]]は、「ルノワールは、自分の感情やあらゆる自然や夢を、自分なりの技法で表現する。彼は自らの歓喜の目で、女性と花から成る見事な花束を作り出した。」と評した<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 150)]]。</ref>。[[アンリ・マティス]]は、「セザンヌに次いで、ルノワールは、私たちを、潤いに欠けた純然たる抽象化から救っている。」と語り、[[パブロ・ピカソ]]は、ルノワールを「法王」と呼んだという。ルノワールは、彼ら若手画家たちに敬愛され、影響を与えた<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 184-85)]]。</ref>。
 
==== 日本 ====
396 ⟶ 402行目:
* {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |title=フランス絵画史――ルネサンスから世紀末まで |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社学術文庫]] |year=1990 |isbn=4-06-158894-X |ref=高階・フランス}}
* {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |title=近代美術の巨匠たち |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波現代文庫]] |year=2008 |isbn=978-4-00-602130-6 |ref=高階・巨匠}}
* {{Cite book |和書 |author=アンヌ・ディステル |others=柴田都志子・田辺希久子訳、高階秀爾監修 |title=ルノワール――生命の讃歌 |publisher=[[創元社]] |series=「知の再発見」双書 |year=1996 |origyear=1993 |isbn=978-4-422-21115-2 |ref=ディステル}}
* {{Cite book |和書 |author=[[西岡文彦]] |title=謎解き印象派――見方の極意 光と色彩の秘密 |publisher=[[河出書房新社]] |series=[[河出文庫]] |year=2016 |isbn=978-4-309-41454-6 |ref=西岡}}
* {{Cite book |和書 |author=シルヴィ・パタン |others=渡辺隆司・村上伸子訳、高階秀爾監修 |title=モネ――印象派の誕生 |publisher=[[創元社]] |series=「知の再発見」双書 |year=1997 |origyear=1991 |isbn=4-422-21127-7 |ref=パタン}}