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Stingfield (会話 | 投稿記録)
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|職名 = [[衆議院|衆議院議員]]
|選挙区 =
|当選回数 = 6
|退任日 =
|国旗2 = 日本
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[[陸奥国]]大沼郡[[会津高田町|高田村]](現[[福島県]][[大沼郡]][[会津美里町]])出身。佐治一族は高田の旧家で、醸造業を営むほか、大地主として高田地域を代表する家の一つとして知られた。父は西佐治家の当主幸左衛門金麗<ref>『会津高田南佐治家の系譜』97頁</ref>。6歳から[[会津藩]][[藩士]]栃木南涯の養育を受け、その養子となるが離籍し、佐治次左衛門の養子としてのちに分家している。次左衛門は本佐治家の当主で、孫婿に[[星冬四郎]]や[[帝人]]副社長などがいる<ref>『会津高田南佐治家の系譜』94頁</ref>。佐治は若松中学(現[[福島県立会津高等学校|会津高等学校]]の前身)を卒業し、さらに[[福島師範学校]]に学び小学校教員となる。
 
親戚の佐治与松の影響を受け、在職中から自由民権運動に共鳴。望月與三郎<ref group=*>会津藩士・望月弁次郎の長男。民権運動により教員を罷免されたのち[[同志社大学]]を卒業。のち朝鮮で貿易に従事。</ref>、平山條三郎<ref group=*>のち県議、高田町助役。</ref>らと民権家として活動し、[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]会津支部が設けられた明治15(年([[1882年]])年2)2月の前月に教職を退き政治運動に没入する。[[福島県知事一覧|福島県令]][[三島通庸]]は[[会津三方道路]]の建設を推進していたが、労働力の提供と資金の負担を迫られた住民の反発は強かった。佐治はこの三方道路建設反対運動の中心となって活動したが、[[宇田成一]]とともに逮捕される。その2日後、民権運動派(三方道路反対派)は釈放を求めて警察署に押しかけ、警察官と揉みあいになり[[福島事件|喜多方事件]](弾正ヶ原事件)が生起する。逮捕者は2000名を超え、その中には[[河野広中]]もいた。佐治は「大沼郡の巨魁扇動者」として起訴され軽懲役6年の判決が下るが、[[大審院]]に上告し無罪を勝ち取った。
 
その後は政治家として歩み高田村会議員、大沼全村連合会議員、福島県会議員を歴任。明治20年([[1887年]])には会津協会を設立し会津地域の発展に努める。実業家として福島県農工銀行<ref group=*>[[1941年]](昭和19年)、[[日本勧業銀行]]に合併された。</ref>、[[磐越西線#歴史|岩越鉄道会社]]の設立に関わり、役員を務めている。[[高田橋 (会津若松市)|高田橋]]の架橋、若松・高田間の直線道路建設など社会資本の整備に役割を果たした。明治27年([[1894年]])、[[第4回衆議院議員総選挙]]に福島県第四区から出馬し衆議院議員に当選。以後、[[第7回衆議院議員総選挙|第7回総選挙]]を除いて[[第10回衆議院議員総選挙|第10回総選挙]]まで6回の当選を果した([[立憲政友会]]に所属)。明治36年([[1903年]])11月、[[平民]]階級出身として初めて若松市長(現:[[会津若松市]]長)に就任した。[[福島県立葵高等学校|会津高等女学校]]、[[福島県立会津工業高等学校|会津工業]]開校などの功績を残し、また[[東海散士|柴四朗]]と協力し[[歩兵第65連隊]]を誘致している。
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{{Commonscat|Mayors of Aizuwakamatsu|会津若松市長}}
{{会津若松市長}}
 
{{DEFAULTSORT:さし こうへい}}
[[Category:日本の鉄道実業家]]