「宝亀の乱」の版間の差分

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を訪れた機会を捉えた呰麻呂は、[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]([[780年]][[5月1日]])、俘囚の軍(俘軍)を動かして反乱を起こし、まず大盾を殺し、次に広純を多勢で囲んで殺害した。陸奥[[国司|介]]の[[大伴真綱]](おおとものまつな)だけは囲みを開いて[[多賀城]]に護送されたが、城下の住民が多賀城の中に入って城を守ろうとしたのに対し、真綱は陸奥[[掾]]の[[石川浄足]](いしかわのきよたり)とともに後門から隠れて逃げたため、住民もやむなく散り散りになって逃れた。数日後、俘囚軍は城に入って略奪行為を働き、焼き払って去ったという。当時、多賀城の倉庫には「兵器粮蓄 勝げて計うるべからず<!--(意訳:≪未編集≫)-->」(『[[続日本紀]]』)とある。
 
しかし、正史の記録は以後の経過を記さない。多賀城の略奪についてもその指揮官は不明であり、[[征東大将軍#日本の征東大将軍|征東大使]][[藤原継縄]]が任命されるも準備不足を理由に出立せずに投入後ち罷免されるなど、朝廷側の対策整わず、戦闘は拡大したと見られている。
 
== 戦後 ==