「ベトレン・ガーボル」の版間の差分

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=== 晩年 ===
ベトレンは和約後も上部ハンガリーへの侵攻を[[1623年]]から[[1624年]]、[[1626年]]の2度に渡って行っているが、どちらも反ハプスブルクを標榜するプロテスタント勢力の直接の同盟者という立場であった。最初の紛争は1624年の[[ウィーンの和約 (1624年)|ウィーンの和約]]で、2度目は1626年の[[プレスブルクの和約]]で終わった。これら2つの和平条約はどちらも1621年のニコルスブルクの和約を確認するものだった。
 
2度目の遠征が終わった後、ベトレンはウィーン宮廷との友好関係を修復しようと試み、トルコ人を共通の敵とする軍事同盟の締結や、自分自身とオーストリアの大公女との結婚を構想していたが、フェルディナント2世に断られたため、対トルコ戦争計画を放棄せざるを得なくなった。こうした失敗もあって、ベトレンはウィーンから帰ってまもなく[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク]][[ブランデンブルク統治者の一覧|選帝侯]][[ヨーハン・ジギスムント]]の娘[[カタリーナ・フォン・ブランデンブルク|カタリーナ]]と再婚し、プロテスタント勢力の同盟者としての地位をさらに固めることになった(最初の妻カーロイ・ジュジャンナは1622年に死去)。結婚後、ベトレンはカタリーナの姉の夫である[[スウェーデン]]王[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]の[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]王位獲得のための戦いを支援した。