「プロヴァンス王国」の版間の差分

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[[875年]]に皇帝[[ロドヴィコ2世]]も継嗣無く没した。シャルル2世はすかさずイタリア王国を征服して皇帝となり、その際に[[プロヴァンス]]も統一された。シャルル2世は王太子[[ルイ2世 (西フランク王)|ルイ2世]]の後見人であるボソをプロヴァンス伯に任じた。シャルル2世の死後はルイ2世が西フランク王となり、そのままプロヴァンス王位も継承した。ルイ2世が死去すると、西フランク王国は[[ルイ3世 (西フランク王)|ルイ3世]]と[[カルロマン (西フランク王)|カルロマン]]の2人の息子が分割統治することとなり、プロヴァンスはカルロマンが担当した。しかしこの兄弟とプロヴァンス伯ボソは政治的対立関係になった。
 
[[879年]]にプロヴァンス伯[[ボソ (プロヴァンス王)|ボソ]]は反乱をおこして独立し、プロヴァンス王位についた。プロヴァンス王国は再び独自の王を持つようになった。このプロヴァンス王国は低地ブルグント王国(キスユラブルグント王国)とも言う。独立を果たしたボソであったが、やがてイタリア王と東フランク王を兼ねる皇帝[[カール3世 (フランク王)|カール3世]]の協力を得た西フランク王カルロマンによって[[882年]]に反撃された。プロヴァンス王国は再び西フランクに併合され、カルロマンがプロヴァンス王を兼ねた。カルロマンは[[884年]]に死去したが子が無く、兄のルイ3世も[[882年]]にやはり子が無いまま死去しており、弟の[[シャルル3世 (西フランク王)]]は5の幼児であった。このため、皇帝カール3世がプロヴァンスを含む西フランクを相続した。これはフランク王国の再統一でもあった。
 
プロヴァンス王位を失ったボソはまだ生きていたが、[[887年]]に死去した。10に満たないボソの息子[[ルイ3世 (プロヴァンス王)|ルイ3世]](西フランク王ルイ3世とは別人)は、母と共に皇帝カール3世の元に身を寄せ、皇帝の養子となった。翌年にカール3世が死去するとフランク王国は再び5つに分裂したが、この時にルイ3世は復活したプロヴァンス王国([[キスユラブルグント王国]])を相続することとなった。ルイ3世は成長するとイタリアに進出し、皇帝にもなった。
 
以降の詳細は[[キスユラブルグント王国]]を参照