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{{by|2012年}}からは、[[四国アイランドリーグplus]]・[[高知ファイティングドッグス]]の指導者となり、{{by|2014年}}から2年間、監督を務めた。
 
== ・人物 ==
=== プロ入りまで ===
[[高知中学校・高等学校|高知高校]]では{{by|1966年}}、2年生の時に[[第38回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]に[[中堅手]]として出場するが、2回戦で[[鳥取県立米子東高等学校|米子東]]に敗退。夏の予選南四国大会では準決勝で[[土佐中学校・高等学校|土佐]]に敗れる。翌{{by|1967年}}の[[第39回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]にも[[三塁手]]として連続出場、エース三本隆([[JX-ENEOS野球部|日本石油]])を擁し、順調に勝ち進み決勝に進出する。しかし[[大分県立津久見高等学校|津久見]]の[[吉良修一]]投手に抑えられ延長12回の熱戦の末1-2で惜敗、準優勝に終わった。同年夏の予選南四国大会では準決勝で[[徳島県立徳島工業高等学校|徳島工]]に敗れ、夏の甲子園には縁がなかった。卒業後は[[四国銀行硬式野球部|四国銀行]]に入社、[[都市対抗野球大会|都市対抗]]に4年連続出場。{{by|1971年}}の[[第42回都市対抗野球大会|大会]]では[[コスモ石油|丸善石油]]の補強選手となり二番打者として活躍、決勝に進出する。決勝では[[三沢淳]]投手、[[佐々木恭介]][[一塁手]]のいた[[新日鐵住金広畑硬式野球部|新日鐵広畑]]に敗れたが、チームの準優勝に貢献した。
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;その他の記録
* [[サイクル安打|サイクルヒット]]:1973年7月11日、対日拓ホームフライヤーズ前期12回戦([[明治神宮野球場]]) ※史上26人目
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]:3回 (1974年、1975年、1977年)
 
=== 背番号 ===
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== 関連項目 ==
* [[山森雅文]]
* [[高知県出身の人物一覧]]
* [[千葉ロッテマリーンズの選手一覧]]
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[[Category:千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手]]
[[Category:阪神タイガース及びその前身球団の選手]]
[[Category:NPBオールスターゲーム選出選手]]
[[Category:日本の野球監督]]
[[Category:横浜DeNAベイスターズ関連人物]]