「築山殿」の版間の差分

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=== 転機 ===
永禄3年([[1560年]])[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]の[[桶狭間の戦い]]にて伯父の今川義元が討たれ、元康(元信から改名。のちの家康)は岡崎に帰還することとなった。永禄5年([[1562年]])3月、父の親永は娘婿である家康(元康から改名)が[[織田信長]]と同盟を結んだ事で[[今川氏真]]の怒りを買い、正室と共に自害した。築山殿は、[[石川数正]]が駿河に来て今川氏真を説得し、[[鵜殿氏長]]・[[鵜殿氏次]]と築山殿母子との人質交換をすることで、駿府の[[駿府城|今川館]]から子供たちと共に家康の根拠地である岡崎に移った<ref>中村孝也『徳川家康公傳』(東照宮社務所、1965年、108頁)</ref>。しかし、岡崎城内ではなく城外の西岸寺に居住したことや、『[[家忠日記]]』における築山殿を示す敬称が正室を表す「御前さま」ではなく、「信康御母さま」であることなどから、今川との手切れにあたって離縁されたとも見られている<ref name="rekisijin72">{{Cite journal|和書
|author = [[平野明夫 (歴史学者)|平野明夫]]
|date =2016-12
|title = 松平信康はなぜ殺されたのか?
|journal = 歴史人
|issue = 72
|pages = 102-107
|publisher = KKベストセラーズ
|naid =
|ref = harv }}</ref>。
 
永禄10年([[1567年]])、息子の信康と[[織田信長]]の長女・[[徳姫]]が9歳同士で結婚する<ref>中村孝也『徳川家康公傳』(東照宮社務所、1965年、112頁)</ref>。元亀元年(1570年)に信康が嫡子として岡崎城に移された際に、嫡子生母として岡崎城に入ることとなる<ref name="rekisijin72"/>。
 
=== 対立・終焉 ===
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{{see also|松平信康#信康自刃事件について}}
だが、この通説には疑問点も多く、[[桑田忠親]]は「確かな文献には、築山殿が武田と内通したとか、唐人の減敬と密通したとか、信康を共犯にしたとかいうような記事は全く見あたらない。これは彼女が冤罪であった証拠と考えられる。」としたうえで、処刑に際して正当な理由が見つからなかったから、作りあげられた理由とし、家康が築山殿を暗殺したのは、「信康の死を知った彼女が狂乱して事を起こすのを未然に防ぐためだった」とする<ref>桑田忠親「築山事件の真相」(『歴史と人物』12巻13号、1982年)</ref>。また「母子がそろって嫁であり妻である徳姫とおこしたいさかいそのものを家康が問題視した。ぬきさしならないところまで発展させてしまったことに対する責任を、明確にさせたかった。」とする指摘もある<ref>[[宮本義己]]『徳川家康の秘密』(KKベストセラーズ、1992年、99-100頁)</ref>。近年では築山殿の殺害と信康の切腹は、家康・信康父子の対立が原因とする説も出されている<ref>[[典厩五郎]]『家康、封印された過去』(PHP研究所 1998年)</ref><ref>[[盛本昌広]]『松平家忠日記』(角川選書 1999年)</ref><ref>[[谷口克広]]『信長と消えた家臣たち』(中公新書 2007年)</ref>。結婚当初良好であった信康夫婦の仲は、2人の姫をもうけた後に不和となっていたとみられ、当時の書状や日記からみる日程や行動から、家康が2人の仲の修復を試みたとの推測や、この頃鷹狩として岡崎まできていた信長も、娘夫婦の不和に対し働きかけがあったとの考察もあり<ref name="rekisijin72"/>、信康の家臣団が、信康をかつぎ家康に叛意を抱くもの・信康に添っているが家康に対しても忠実であるもの・器量を危ぶみ信康に反感をいだくものなどに割れていたことが混乱と粛清に向かったとする説もある<ref name="rekisijin72"/>。
 
富塚の[[西来禅院]]に葬られた<ref>桑田忠親「築山事件の真相」(『歴史と人物』12巻13号、1982年)</ref>。首塚が[[岡崎市]]の祐傳寺、後に天保年間の頃[[八柱神社]]に移された。法名は'''西来院殿政岩秀貞大姉'''<ref>桑田忠親「築山事件の真相」(『歴史と人物』12巻13号、1982年)</ref>。
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* 「無数の悪質、嫉妬深き婦人也」(『[[柳営婦人伝]]』)。
* 「其心、偏僻邪佞にして嫉妬の害甚し」(『[[武徳編年集成]]』)。
* 「凶悍にてもの妬み深くましまし」(『[[改正三河後風土記]]』、唐人医師の[[減敬]]と密通していたとされる
 
[[野中重政]]の行動も参照。
 
== 脚注 ==