「アパルトヘイト」の版間の差分

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===シャープビル虐殺事件と運動の沈静化===
1960年には[[パス法]]に反対する集会をPACが企画し、ANCも合流。そこに集まった群衆に軍が発砲し、[[シャープビル虐殺事件]]が勃発した。これにより、政府は両党を非合法化し、活動家を次々と逮捕していった。マンデラは1962年、シスルは1963年に逮捕され、[[ケープタウン]]沖の[[ロベン島]]の[[刑務所]]へと送られた。生き残った活動家は亡命し、[[テロ]]活動をおこなったものの、活動自体はやがて沈静化していった。
 
===国際関係===
[[国連総会]]は、[[1952年]]以降毎年非難決議を採択し、1961年には[[イギリス連邦]]が激しい非難をしたために同連邦から脱退するなど他国は絶えず差別的であるとみなしアパルトヘイトを非難し、1973年に[[国際連合総会]]で採択された国際条約において[[人道に対する罪]]と糾弾したが、1980年代まではアパルトヘイトが他国のこれらの非難の影響を受けることはなかった<ref>{{Harvtxt|レナード・トンプソン|1995|pp=373-374}}</ref>。[[オリンピック南アフリカ選手団]]は、アパルトヘイトへの制裁措置として[[1960年]]の[[ローマオリンピック]]を最後に[[近代オリンピック|オリンピック]]から締め出された。その後も、[[国際オリンピック委員会|国際オリンピック委員会(IOC)]]からたびたび勧告を受けるも拒否し続けたため、[[1970年]]に除名処分を受けた。結果、人種隔離政策撤廃後の[[1991年]]にIOCから再承認を受け、[[1992年]]の[[バルセロナオリンピック]]で復帰するまで参加は認められなかった。また[[1976年]]の[[モントリオールオリンピック]]では、[[ニュージーランド]]の[[ラグビー]]チームが南アフリカ遠征を行ったにも関わらず大会参加を認められた事に抗議して、[[タンザニア]]をはじめアフリカ諸国22ヶ国による[[ボイコット]]が起こっている。
 
===ビコとソウェト蜂起===
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反アパルトヘイト運動が再び活発化したのは、[[スティーヴ・ビコ]]の登場からである。[[1968年]]、ナタール大学の学生だったビコは黒人だけの学生組織「南アフリカ学生機構」を結成し、黒人解放運動を開始した。ビコは黒人意識運動を提唱し、白人人種主義のすべての犠牲者への連帯をよびかけた。[[1973年]]にはビコの言論活動が禁止されたものの、ビコは各種プロジェクトを通じて実践をおこない、黒人意識運動は南アフリカ全土に広まっていった。この政治意識の高まりを背景に、[[1976年]]には[[アフリカーンス語]]の教育強制に反発した黒人が[[ソウェト蜂起]]を起こす。当時の[[バルタザール・フォルスター]]政権はこれを武力で弾圧したものの、この事件は国外のアパルトヘイトへの目をいよいよ厳しいものとし、また国内での抵抗運動はこれをきっかけに再び盛り上がっていった。
 
===国際関係1980年代===
[[国連総会]]は、[[1952年]]以降毎年非難決議を採択し、1961年には[[イギリス連邦]]が激しい非難をしたために同連邦から脱退するなど他国は絶えず差別的であるとみなしアパルトヘイトを非難し、1973年に[[国際連合総会]]で採択された国際条約において[[人道に対する罪]]と糾弾したが、1980年代まではアパルトヘイトが他国のこれらの非難の影響を受けることはなかった<ref>{{Harvtxt|レナード・トンプソン|1995|pp=373-374}}</ref>。[[オリンピック南アフリカ選手団]]は、アパルトヘイトへの制裁措置として[[1960年]]の[[ローマオリンピック]]を最後に[[近代オリンピック|オリンピック]]から締め出された。その後も、[[国際オリンピック委員会|国際オリンピック委員会(IOC)]]からたびたび勧告を受けるも拒否し続けたため、[[1970年]]に除名処分を受けた。結果、人種隔離政策撤廃後の[[1991年]]にIOCから再承認を受け、[[1992年]]の[[バルセロナオリンピック]]で復帰するまで参加は認められなかった。また[[1976年]]の[[モントリオールオリンピック]]では、[[ニュージーランド]]の[[ラグビー]]チームが南アフリカ遠征を行ったにも関わらず大会参加を認められた事に抗議して、[[タンザニア]]をはじめアフリカ諸国22ヶ国による[[ボイコット]]が起こっている。
 
===1980年代からネルソン・マンデラ釈放まで===
[[1980年]]代に入ると、国内各地でますます反対運動が激化、また、国際的な[[経済制裁]]を受けた。当時南アフリカの最大の貿易相手国であった[[日本]]に対し国連が非難決議<ref group="注">フランスやイギリスなどは非公式ながら兵器を輸出していたが、非難決議はされなかった。</ref>を採決することもあった。これを受け、[[ピーター・ウィレム・ボータ]]政権は白人・インド人・カラードによる'''[[人種別三院制議会]]'''を[[1984年]]に開設した。また、雑婚禁止法と背徳法、分離施設法を1985年に廃止、パス法を1986年に廃止するなどいくらかの改革をおこなったが、運動はまったく沈静化せず、国外からの批判はさらに厳しくなった。
 
===マンデラ釈放から完全撤廃===
これらを受け、[[1989年]]9月に大統領に就任した[[フレデリック・ウィレム・デクラーク]]はこれまでの政府(国民党)の方針を転換し、撤廃に向けての改革を進展させた。その政策方針により、[[1990年]] 2月、ANC やPAC、南ア共産党を合法化し、[[ネルソン・マンデラ]]を釈放した。1991年2月には国会開会演説でアパルトヘイト政策の廃止を宣言し、6月には人種登録法、原住民土地法、集団地域法が廃止され、アパルトヘイト体制を支えてきた根幹法の最後の法律が廃止された。しかし「選挙法」「教育および訓練法」など22のアパルトヘイト法と数百の人種差別的条例がまだ残っていた。その後黒人部族間の対立が激化し南アフリカ社会内戦状態に陥っ体制移行期の危機的な混乱を何度も経験した。この混乱は19901991年から1994年4月の総選挙実施まで続き、多くの死者を出した。
 
アパルトヘイト廃止後の南アフリカ共和国のことを話し合うために全18政党・組織が参加した民主南アフリカ会議(CODESA(コデサ))が1991年12月と1992年5月に開催された。しかし、交渉中にANC系組織と[[インカタ自由党]] (IFP。ズールー族系)との武力衝突がトランスヴァール州(現[[ハウテン州]]など)、[[ナタール州]](現[[クワズール・ナタール州]])で頻発し、多くの死傷者が出た。そのためにしばしば交渉は中断、延期された。1993年4月には白人極右<ref>{{Harvtxt|レナード・トンプソン|1995|p=462}}</ref>の指示によって一人のポーランド人移民が、当時ANCのナンバー3だった{{仮リンク|クリス・ハニ|en|Chris Hani}}を殺害した。また、一部のホームランドが独立の維持を望み統合に反対する動きを起こし、[[ボプタツワナ]]政府などはアパルトヘイト維持を掲げる白人右翼[[アフリカーナー抵抗運動]](AWB)と連携して抵抗したものの、ボプタツワナ軍の反乱によってボプタツワナ政府は崩壊し、アフリカーナー抵抗運動の党首だった{{仮リンク|コンスタンド・フィリューン|en|Constand Viljoen}}は穏健派を率いて新党「{{仮リンク|自由戦線プラス|en|Freedom Front Plus|label=自由戦線}}」を設立し、選挙へと参加した。1993年4月に26政党・組織が参加した多党交渉フォーラムで、選挙までの政体として全政党・組織が参加した暫定政府を同年12月に発足させることに決まり、同時に暫定憲法も制定した。最後まで抵抗していたインカタ自由党も選挙実施数日前に選挙参加を決め、すべての有力勢力が全人種選挙へと参加することとなった。
===完全撤廃===
 
1991年から1994年までの3年間、南アフリカ社会は体制移行期の危機的な混乱を何度も経験した。1993年4月には白人極右<ref>{{Harvtxt|レナード・トンプソン|1995|p=462}}</ref>の指示によって一人のポーランド人移民が、当時ANCのナンバー3だった{{仮リンク|クリス・ハニ|en|Chris Hani}}を殺害した。1994年4月に全人種参加の初の総選挙が行われ、憲法が制定され、ネルソン・マンデラが大統領になり、アパルトヘイトは撤廃された。
1994年4月にようやく全人種が参加する選挙が行われ、5月にネルソン・マンデラが大統領となり新政権が樹立された。得票率は、アフリカ民族会議(ANC)62.6%、国民党20.4%、インカタ自由党(IFP)10.5%、その他という結果である。アフリカ民族会議は黒人票の90%を獲得したと推定され圧倒的な強さを見せたが、単独で憲法を制定できる2/3には届かなかった。
 
===経済制裁の解除===
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当時の世界経済の背景には、当時[[冷戦]]下における西側諸国は、南アフリカ共和国が[[レアメタル]]の独占的産出国であり、南アフリカ共和国からこれら資源を輸入しなくては、敵国ソ連から輸入せざるを得ない状況であった。それ故にアパルトヘイト政策を非難する経済制裁を発することが出来ず、南アフリカ政府はアパルトヘイト政策を継続できた。ところが冷戦終結により旧東側諸国からのレアメタルの資源供給が容易になり、南アフリカ共和国の国際社会での立場が弱まり、欧米などから経済制裁を受けたことがアパルトヘイト撤廃に繋がっていった。
 
== アパルトヘイト廃止後 ==
===ローマ会議===
大統領に就任したマンデラは民族和解・協調を呼びかけ、アパルトヘイト体制下での白人・黒人との対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済制裁による経済不況からの回復に努めた。
{{Main|人道に対する罪}}
 
また、[[デズモンド・ムピロ・ツツ|ツツ]]主教を委員長とする[[真実和解委員会]]を発足させ、人権侵害を行ったと指摘された人物・団体は刑事訴追を行った。経済政策として、[[公共事業]]を通じて失業問題を解消させ、土地改革によって不平等な土地配分を解決し、5年間に毎年30万戸以上を建設することで住宅問題の解決を図り、上下水道などの衛生施設の完備をし、[[2000年]]までに250万世帯を電化するといった計画を発表した。しかし、実施機構整備の遅れ、財源不足、人材不足から達成するにいたらず、特に黒人への富の再配分の実施は遅れ、失業は増大し、社会犯罪は激増した。このことが先進諸国からの[[投資]]や、企業進出を妨げる要因となっている。このような状況から黒人の新政権への不満が高まることになった。
 
その後、[[ターボ・ムベキ]]が新大統領に就任した後も状況は変わらず、失業率は3割を超え、また[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]が蔓延している。ムベキ政権下では黒人経済力増強政策がとられ、各企業に一定数の黒人登用を義務づけた。これにより黒人の中流層が勃興する一方で、アパルトヘイト時代に不十分な教育しか受けることのできなかった大多数の黒人はこの恩恵を受けることができず、貧富の差は拡大した。さらに、黒人経済力増強政策によって有能な黒人のコストが跳ね上がり、企業の事業に対する負担となっている。アパルトヘイト政策から得た利益が、[[先進国]]の企業から還流する動きもない<ref>{{Cite book|和書|title=スティグリッツ教授の経済教室|page=101}}</ref>。
 
[[1998年]]にはローマ会議において、[[国際刑事裁判所ローマ規程]]が採択され、署名期限までに139カ国により署名が行われた。国際刑事裁判所ローマ規程第7条(j)では、アパルトヘイトは、「アパルトヘイト犯罪」として、「[[人道に対する罪]]」として規定された{{Refnest|group="注"|「人道に対する犯罪」とは、文民たる住民に対する攻撃であって、次のいずれかの行為をいう。(a)殺人。(b)絶滅させる行為。(c)奴隷化。(d)住民の追放又は強制移送。(e)国際法の基本的な規則に違反する拘禁その他の身体的な自由の著しいはく奪。(f)拷問。(g)強姦、性的な奴隷、強制売春、強いられた妊娠状態の継続、強制断種その他あらゆる形態の性的暴力。(h)政治的、人種的、国民的、民族的、文化的又は宗教的な理由、性に係る理由その他国際法の下で許容されないことが普遍的に認められている理由に基づく特定の集団又は共同体に対する迫害。(j)人の強制失踪。(j)アパルトヘイト犯罪。その他の同様の性質を有する非人道的な行為であって、身体又は心身の健康に対して故意に重い苦痛を与え、又は重大な傷害を加えるもの<ref>{{cite web|url=http://d.hatena.ne.jp/kazuma_002/20040609|work=国際刑事裁判所ローマ規程|title=<nowiki>[第2部 管轄権、受理許容性及び適用される法]</nowiki> 第7条 人道に対する犯罪|publisher=[[はてなのサービス一覧#はてなダイアリー|はてなダイアリー]]|date=2004-06-09|accessdate=2007-08-20}}</ref>。}}。
 
== 例外的な扱い・「名誉白人」 ==
=== アーティスト ===
{{出典の明記|date=2012年3月|section=1}}
この政策で、南アフリカにとって大きな貿易相手でもある[[日本人]]は「名誉白人(Honorary Whites)」として制度上の差別待遇を免ぜられた(→[[名誉人種]])<ref>{{Harvtxt|峯陽一|1996|p=225}}</ref>。有色人種でも経済力のある者に対しては白人扱いするために、とも捉えられる。19世紀ゴールドラッシュでやってきた[[中国人]]の子孫は有色人種として扱われた。[[中華料理]]店は白人専用とされたが、中華料理店の従業員および主な顧客層である中国人の子孫、中華民国人も排除されかねないため、中国人の子孫も中華料理店に限っては名誉白人として扱われた。
 
[[1987年]]、国際社会がアパルトヘイトに反対して、文化交流を禁止し、経済制裁に動くなかで、日本は逆に、南アフリカの最大の貿易相手国([[ドル]]ベースの貿易額基準)となり、翌[[1988年]][[2月5日]]に[[国際連合|国連]]反アパルトヘイト特別委員会のガルバ委員長はこれに遺憾の意を表明した(ガルバ声明)<ref group="注">{{Cite news|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/112/1410/11205231410006c.html|title=参議院会議録情報 第112回国会 決算委員会 第6号|newspaper=議事録|publisher=[[国立国会図書館]]|postscript=。日本政府の対応については[[外務省]]の当該答弁を参照。}}</ref>。
 
=== アーティスト ===
[[1985年]]、英米の[[ロック (音楽)|ロック]]・[[ソウルミュージック|ソウル]]・[[ジャズ]]等のスター約50名による「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」(''[[:en:Artists United Against Apartheid]]'')の「[[サン・シティ (曲)|サン・シティ]]」というシングルが発売された。折からのチャリティー・ブームに乗った企画であったが、リベラルな内容ゆえに[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の保守的な地方でのオンエアは控えめであった。[[ビルボード]]では最高38位を記録している。
 
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日本では、[[THE BLUE HEARTS]]が[[1989年]]に「[[青空 (THE BLUE HEARTSの曲)|青空]]」をリリースした。[[爆風スランプ]]も現地でライブを行った。
 
== アパルトヘイト廃止後 ==
アパルトヘイト廃止後の南アフリカ共和国のことを話し合うために全18政党・組織が参加した民主南アフリカ会議(CODESA(コデサ))が1991年12月と1992年5月に開催された。しかし、交渉中にANC系組織と[[インカタ自由党]] (IFP。ズールー族系)との武力衝突がトランスヴァール州(現[[ハウテン州]]など)、[[ナタール州]](現[[クワズール・ナタール州]])で頻発し、多くの死傷者が出た。そのためにしばしば交渉は中断、延期された。また、一部のホームランドが独立の維持を望み統合に反対する動きを起こし、[[ボプタツワナ]]政府などはアパルトヘイト維持を掲げる白人右翼[[アフリカーナー抵抗運動]](AWB)と連携して抵抗したものの、ボプタツワナ軍の反乱によってボプタツワナ政府は崩壊し、アフリカーナー抵抗運動の党首だった{{仮リンク|コンスタンド・フィリューン|en|Constand Viljoen}}は穏健派を率いて新党「{{仮リンク|自由戦線プラス|en|Freedom Front Plus|label=自由戦線}}」を設立し、選挙へと参加した。1993年4月に26政党・組織が参加した多党交渉フォーラムで、選挙までの政体として全政党・組織が参加した暫定政府を同年12月に発足させることに決まり、同時に暫定憲法も制定した。最後まで抵抗していたインカタ自由党も選挙実施数日前に選挙参加を決め、すべての有力勢力が全人種選挙へと参加することとなった。
 
1994年4月にようやく全人種が参加する選挙が行われ、5月にネルソン・マンデラが大統領となり新政権が樹立された。得票率は、アフリカ民族会議(ANC)62.6%、国民党20.4%、インカタ自由党(IFP)10.5%、その他という結果である。アフリカ民族会議は黒人票の90%を獲得したと推定され圧倒的な強さを見せたが、単独で憲法を制定できる2/3には届かなかった。
 
マンデラは民族和解・協調を呼びかけ、アパルトヘイト体制下での白人・黒人との対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済制裁による経済不況からの回復に努めた。
 
[[デズモンド・ムピロ・ツツ|ツツ]]主教を委員長とする[[真実和解委員会]]を発足させ、人権侵害を行ったと指摘された人物・団体は刑事訴追を行った。経済政策として、[[公共事業]]を通じて失業問題を解消させ、土地改革によって不平等な土地配分を解決し、5年間に毎年30万戸以上を建設することで住宅問題の解決を図り、上下水道などの衛生施設の完備をし、[[2000年]]までに250万世帯を電化するといった計画を発表した。しかし、実施機構整備の遅れ、財源不足、人材不足から達成するにいたらず、特に黒人への富の再配分の実施は遅れ、失業は増大し、社会犯罪は激増した。このことが先進諸国からの[[投資]]や、企業進出を妨げる要因となっている。このような状況から黒人の新政権への不満が高まることになった。
 
その後、[[ターボ・ムベキ]]が新大統領に就任した後も状況は変わらず、失業率は3割を超え、また[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]が蔓延している。ムベキ政権下では黒人経済力増強政策がとられ、各企業に一定数の黒人登用を義務づけた。これにより黒人の中流層が勃興する一方で、アパルトヘイト時代に不十分な教育しか受けることのできなかった大多数の黒人はこの恩恵を受けることができず、貧富の差は拡大した。さらに、黒人経済力増強政策によって有能な黒人のコストが跳ね上がり、企業の事業に対する負担となっている。アパルトヘイト政策から得た利益が、[[先進国]]の企業から還流する動きもない<ref>{{Cite book|和書|title=スティグリッツ教授の経済教室|page=101}}</ref>。
 
== 例外的な扱い・「名誉白人」 ==
{{出典の明記|date=2012年3月|section=1}}
この政策で、南アフリカにとって大きな貿易相手でもある[[日本人]]は「名誉白人(Honorary Whites)」として制度上の差別待遇を免ぜられた(→[[名誉人種]])<ref>{{Harvtxt|峯陽一|1996|p=225}}</ref>。有色人種でも経済力のある者に対しては白人扱いするために、とも捉えられる。19世紀ゴールドラッシュでやってきた[[中国人]]の子孫は有色人種として扱われた。[[中華料理]]店は白人専用とされたが、中華料理店の従業員および主な顧客層である中国人の子孫、中華民国人も排除されかねないため、中国人の子孫も中華料理店に限っては名誉白人として扱われた。
 
[[1987年]]、国際社会がアパルトヘイトに反対して、文化交流を禁止し、経済制裁に動くなかで、日本は逆に、南アフリカの最大の貿易相手国([[ドル]]ベースの貿易額基準)となり、翌[[1988年]][[2月5日]]に[[国際連合|国連]]反アパルトヘイト特別委員会のガルバ委員長はこれに遺憾の意を表明した(ガルバ声明)<ref group="注">{{Cite news|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/112/1410/11205231410006c.html|title=参議院会議録情報 第112回国会 決算委員会 第6号|newspaper=議事録|publisher=[[国立国会図書館]]|postscript=。日本政府の対応については[[外務省]]の当該答弁を参照。}}</ref>。
 
== 脚註 ==