「藤原寛子 (藤原頼通女)」の版間の差分

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父関白の強力な後見を受けて、歌合を催すなど風流を好んだ寛子の御殿は非常に華やかであった。その様子は、寛子に仕えた女房[[四条宮下野|下野]]の私家集『[[四条宮下野集]]』に記されている。
 
しかし父頼通の多大な期待を背負い、素直な明るい気質で後冷泉天皇の篤い寵愛を受けたにもかかわらず、皇后寛子はついに子を産むことはなかった。[[治暦]]4年4月17日([[1068年]]5月20日)、[[藤原歓子]](叔父[[藤原教通]]の娘)の皇后(皇后宮)冊立を受けて皇后(中宮)に冊立。ここに史上唯一、三后が並立する事態となった。なお、皇后宮から中宮になったのは寛子ただ一人である。翌々日後冷泉天皇に先立たれた寛子は、同年12月に出家する。翌[[延久]]元年7月3日([[1069年]]7月23日)[[皇太后]]、[[延久]]6年6月20日([[1074年]]7月16日)[[太皇太后]]となる。彼女の晩年にあたる[[12世紀]]前半には、すでに摂関政治の栄華も過去のものとなっていたが、父頼通や伯母[[藤原彰子]]らその栄華の中心人物と直に接していた寛子は、[[藤原忠実]](弟師実の孫)ら摂関家の人々から過去(摂関政治全盛期)の故実に通じた人として敬意が払われ、没後も「四条宮故実」として彼女による先例は重んじられた。忠実の言行を記した『[[富家語]]』や『[[中外抄]]』にも彼女の故事が登場している<ref>山田彩起子「四条宮藤原寛子の摂関家における位置」(初出:『駿台史学』126号(2005年)/所収:山田『中世前期女性院宮の研究』(思文閣出版、2010年) ISBN 978-4-7842-1496-9)</ref>。
 
大治2年(1127年)、92歳という高齢で[[宇治市|宇治]]別宅にて死去崩御した。92歳という年齢は、[[昭和天皇]]の皇后である[[香淳皇后]]が[[2000年]](平成12年)に97歳で死去するまで約870年もの間、皇后としては歴代最高齢記録であった。
 
== 脚注 ==