「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Bonnie Bee (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
Bonnie Bee (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
4行目:
 
作詞・作曲:ジェイムズ・E・マイヤーズ(James E. Myers)、マックス・C・フリードマン(Max C. Freedman)。
[[ファイル:Decca 9-29124 - (We'reGonna)RockAroundTheClock.jpg|サムネイル|右|Decca 9-29124 (We're Gonna)Rock Around The Clock]]
[[ファイル:Bill Haley and Comets 1956.JPG|サムネイル|右|Bill (l. to r.) are Billy Williamson, Charlie Higler, Marshall Lytle and Johnny Grande. 1953<ref> Charlie HiglerはComets最初のドラマー。ツアー参加のみ、録音の記録は無い。サックスがバンド編入される以前の写真。</ref>]]
 
==概要==
 1954年3月20日に、「ソニー・デイ・アンド・ヒズ・ナイツ」(Sonny Dae and His Knights)によって初めてレコーディングされ、同年5月にアメリカで発売された、[[ビル・ヘイリー|ビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツ]]によるシングル・[[レコード]]が大ヒットした。
===経緯===
 1952年10月23日、マックス・C・フリードマンとジェームズ・E・マイヤーズの間で共同作曲の合意が交わされ、<ref name="fa" />1953年3月31日[[アメリカ議会図書館]]に著作権登録された。<ref>英語版wikipedia[Rock Around the Clock]より引用 2017年5月20日閲覧</ref>版権の所有者でもあるマイヤーズ(レーベル・クレジットのジミー・デナイト『Jimmy DeKnight』はメイヤーズの変名)によって、この曲は[[ビル・ヘイリー]]に提供されていたが、当時ビルが在籍していたエセックス・レコードの経営者デイブ・ミラー(Dave Miller)とマイヤーズの確執により録音は見送られていた。ビル曰く「2年ほどポケットに入れて持ち歩いていた。」<ref group="脚注">著作権登録から録音まで約1年であるが原文をそのまま引用した</ref>1954年、デッカレコードへ移籍の際、「ロック・アラウンド・ザ・クロックを最初に録音する」事がデッカのミルト・ゲイブラー、ヘイリー、マイヤーズの間で約束された。<ref name="fu"> Finnis,Rob(著)『DON'T KNOCK THE ROCK』NEW KOMMOTION Vol.24、1980年、16頁</ref>
 
'''ソニー・デイ盤'''
18行目:
 当時デッカはNYにあるピディアン・テンプル・スタジオで多数の録音を行っていた。通常のスタジオは壁に反射する音を防ぐためのパッドを重厚に詰め込み、いわゆる「デッド・ルーム」な状態とするが、このスタジオは反響の強い「ライブ」な音響特性を持っていた。<ref name="fu" />
 
 デッカレコードの[[A&R]]マン、{{仮リンク|ミルト・ゲイブラー|en|Milt Gabler}}は当時をこう語る。<ref group="脚注" name="fg">1970年 Rob FinnisがMilt gablerに対して行ったインタビュー</ref>「[[コロンビア]]は30番街の教会で録音していたが、私たちはブラスや弦楽器の自然なエコーが得られる場所を探していた(1940年代初頭デッカはPythian Templeの建物の一部をスタジオとして借りる)。ピディアン・テンプルはホテルのボールルームのようなもので、大きく高い天井とバルコニー、そしてステージがあった。全体のバランス調整ためにバルコニーにカーペットを敷きサウンドを「殺し」、<ref group="脚注">バルコニーは室内の桟敷を指す</ref>部屋に[[リバーブ]]を拾うマイクを設置、ビル以外のメンバーはフロアより約4フィート高いステージに上げて録音を行った。こうすることで彼らは通常のライブ演奏のように相手を感じながら演奏する事が出来、音響的にもステージの背後まで降りた天井が、丁度自然な「殻」のような状態となって最高のサウンドを生み出した。ステージから6~8フィート離れた場所にいるビルはフロアからバンドを見上げる格好になった。 」<ref name="fu" />
 
'''ミルト・ゲイブラー'''[ Milt Gabler](1911~2001) 1937年NYにコモドア・レコードを設立、[[ビリー・ホリデイ]]、[[ジェリー・ロール・モートン]]などの歴史的録音を行う。戦後1941年デッカ入りし[[A&R]]マンとして数々のポップ、ジャズレコードの制作を手掛ける。<ref name="fu" />
 
1954年4月12日 ニューヨーク東70番街135 ピディアン・テンプル スタジオ ,West 70th St.NY -A
*ビル・ヘイリー {{仮リンク|Bill Haley|en|Bill Haley}} - [[ヴォーカル]]と[[リズム・ギター]]
*マーシャル・ライテル {{仮リンク|Marshall Lytle|en|Marshall Lytle}} - [[ベース]]
31行目:
*ダニー・セドロン {{仮リンク|Danny Cedrone|en|Danny Cedrone}} - [[エレクトリック・ギター]] 
 
 ゲイブラーのプロデュースの元、午後2時15分録音が始まる。予定では2午前11時スタートであったが、メンバー達がNYへ移動の際、フェリーの運航トラブルによりスタジオ入りが遅れたためこの時間となった。先にゲイブラーが提供した[サーティン・ウーマン]が 吹き込まれる。[ロック・アラウンド・ザ・クロック]の録音の際、パートタイムのメンバーであったダニー・セドロンはこの楽曲を正確に把握しておらず、他のメンバーから「[[ロック・ザ・ジョイント]]の時のソロを弾いたらどうか」という提案を受け入れてソロパートを演奏した。ファーストテイクはビルのヴォーカルがバッキングの音に埋もれNG、テイク2がOKとなり,5時40分録音が終了した。 <ref name="fu" />
<ref>Gardner,Chris(解説)『ROCK THE JOINT!』ROLLER COASTER LP、1985年。</ref>
 
===リリースと反応===
[[ファイル:Bill Haley and Comets 1956.JPG|サムネイル|右|Bill (l. to r.) are Billy Williamson, Charlie Higler, Marshall Lytle and Johnny Grande. 1953<ref> Charlie HiglerはComets最初のドラマー。ツアー参加のみ、録音の記録は無い。サックスがバンド編入される以前の写真。</ref>]]
[[ファイル:Decca 9-29124 - (We'reGonna)RockAroundTheClock.jpg|サムネイル|右|Decca 9-29124 (We're Gonna)Rock Around The Clock]]
 1954年5月10日、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツのデッカ移籍最初のレコードとして発売された。 「それはデッカが毎月リリースする大量のレコードの中の一枚に過ぎなかった。」ゲイブラーは語る.<ref group="脚注" name="fg" />「C&W、R&B、ではなくロックンロールという言葉も無かった。通常のポップレコードの扱いで、レーベルに記載される分類も『Foxtrot』(ダンス音楽)だった。7万5千枚売り上げたがスマッシュヒットとは言えない。ところが2枚目の「シェイク・ラトル・アンド・ロール」が全米トップ10入りの大ヒットになった時、ラジオ局に再度「ロック・アラウンド~」を送ったところ両方共に100万枚を売り上げた。そして最終的に「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は2,000万枚を記録することになった。」<ref name="fu" />
 
 1954年の発売当初この曲は「サーティン・ウーマン」のB面の扱いであった。1955年映画監督リチャード・ブルックスは戦後世代の少年非行を扱った映画「[[暴力教室]]」のテーマ・ソングを探していた。出演者グレン・フォードの息子ピーター・フォードは「ロック・アラウンド~」をブルックスに紹介、同映画の主題曲として採用される。<ref name="fa">[http://www.rockabillyhall.com/RockClockTribute.html The Story of 'Rock Around the Clock': The First Cuckoo of Spring]</ref>同年春に映画が公開されると「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は[[ビルボード]]チャートで7月9日から8月27日まで8週連続1位([[Billboard Hot 100#歴史|Best Sellers In Stores]])、R&B部門3位、年間総合チャート2位を記録する。また、この曲のヒットをきっかけに世界的なロックンロール・ブームが起こる。<ref name="fu" />
 翌[[1955年]]に[[映画]]『[[暴力教室 (1955年の映画)|暴力教室]]』のオープニングに使用されると[[ビルボード]]チャートで7月9日から8月27日まで8週連続1位([[Billboard Hot 100#歴史|Best Sellers In Stores]])、R&B部門3位、年間総合チャート2位を記録する。また、この曲のヒットをきっかけに世界的なロックンロール・ブームが起こる。<ref name="fu" />
 
==いくつかの疑問==
63 ⟶ 62行目:
'''ジェームズ・E・マイヤーズ'''(1919~2001)フィラデルフィア出身。幼少よりドラムを学ぶ。1933年「ジミー・デナイト & ヒズ・ナイツ・オブ・リズム 」結成。1946年「カウボーイ・レコード」、出版社「マイヤーズ・ミュージック」設立、地元ミュージシャンの録音を行う。1950年ASCAP加入。ビル・ヘイリーのデビューから成功まで重要な役割を果たす。作曲家として300の作品を書き、俳優、映画監督、文筆業などその経歴は多岐にわたる。享年82歳。<ref name="fz" />
'''マックス・C・フリードマン'''(1893~1962)フィラデルフィア出身。作曲家、ラジオアナウンサー。音楽出版社スタッフとして1942年ASCAP加入。「スー・シティ・スー」(ディック・トーマス1945年)、「ハート・ブレイカー」([[アンドリュー・シスターズ]]1947年)、「ティー・リーヴス」([[エラ・フィッツジェラルド]]1948年)などのヒット曲を持つ。享年69歳。 <ref>英語版wikipedia[Max C Freedman]より引用 2017年6月20日閲覧</ref>
 
===デモ録音===
 コメッツのメンバーが否定しているにも関わらずエセックス・レコード在籍時(1953年頃)のデモ録音の存在が噂される。ジョン・スウェンソンがヘイリーに行ったインタビューで「『RATC』を録音しようと楽譜を持ってスタジオに行くが、デイブ・ミラー(エセックスの経営者)がそれを破り捨ててしまう、そんな事が3回ほどあった。」その状況の中、何らかの形でヘイリーはデモ録音に成功したとも言われている。実際にマイヤーズは1954年4月1日ビル・ヘイリーとデッカの契約交渉の席でゲイブラーに「RACT」のデモ・レコードを聞かせている。時折、中古市場にエセックス・レコードの「RATC」が出回るが、デッカ録音を元に1960年代末に作られた海賊盤である。<ref name="fa" />
 
==記録と影響==
82 ⟶ 81行目:
 
==関連項目==
*[[ビル・ヘイリー]]
*[[ロックンロール]]
*[[ミルト・ゲイブラー]]
*[[ビルボード]]
*[[アメリカ映画主題歌ベスト100]]
 
==脚注出典==
{{reflist}}
==脚注==
<references group="脚注"/>
 
 
{{デフォルトソート:ろつくあらうんとさくろつく}}