「結城持朝」の版間の差分

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[[1438年]]([[永享]]10年)の[[永享の乱]]では[[鎌倉公方]][[足利持氏]]に加勢した。
 
[[1440年]]([[永享]]12年)3月、永享の乱で自害した鎌倉公方持氏の遺児である春王丸・安王丸を雍した持氏残党が常陸で挙兵すると、氏朝・持朝父子はこれらを[[結城城]]に庇護し、幕府による追討を受けた([[結城合戦]])。持朝は父氏朝や結城一族の諸氏と抵抗したものの敗れ、結城城は落城し、父子ともに討死または自害した。『[[永享記]]』によれば、持朝の首級を挙げたのは[[武田信重]]だという。春王丸・安王丸も捕らえられ持朝らの首とともに京に護送される途中殺害されている。
 
法名は福厳寺殿天英聖勇大禅定門。持朝の菩提を弔うために開かれた曹洞宗乗国寺(現在の[[茨城県]][[結城]])は、のちに結城氏代々の菩提寺になった。
 
{{先代次代|[[結城氏|下総結城氏当主]]|?~1441|[[結城氏朝 (下総結城氏)|結城氏朝]]|[[結城成朝]]}}
 
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