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[[ファイル:ElizabethWoodville.JPG|thumb|エリザベス・ウッドヴィル]]
'''エリザベス・ウッドヴィル'''('''Elizabeth Woodville''', [[1437年]]頃 - [[1492年]][[6月8日]])は、[[薔薇戦争]]期の[[イングランド王国|イングランド]]の女性。[[イングランド君主一覧|イングランド]][[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]の王妃。父は初代リヴァーズ伯[[リチャード・ウッドヴィル (初代リヴァーズ伯爵)|リチャード・ウッドヴィル]]、母は[[サン=ポル伯]][[ピエール1世・ド・リュクサンブール (サン=ポル伯)|サン=ポル伯ピエール1世]]の娘[[ジャケット・ド・リュクサンブール]]。
 
== 生涯 ==
エリザベスは母が[[ランカスター朝]]の国王[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]の叔父[[ベッドフォード公爵|ベッドフォード公]][[ジョン・オブ・ランカスター|ジョン]]と結婚していた縁で、[[1450年]]頃からヘンリー6世の王妃[[マーガレット・オブ・アンジュー]]侍女として仕え、[[1452年]]に[[ランカスター朝|ランカスター派]]{{仮リンク|ジョン・グレイ・オブ・グロ卿(Sir ビー|en|John Grey, 7th Baron Ferrers of Groby)Groby|label=サー・ジョン・グレイ}}と結婚した。ジョンとの間に2人の息子を産んだが、[[1461年]][[セント・オールバンズの戦い (1461年)|第二次セント・オールバンズの戦い]]でジョンは戦死した<ref>森、P93 - P96、ロイル、P259 - P260。</ref><ref name="松村">松村、P232。</ref>
 
未亡人になり生活が困窮したエリザベスは母の故郷である[[ノーサンプトンシャー]]で逼塞していたが、ランカスター派を倒しヘンリー6世を廃位した[[ヨーク朝]]のエドワード4世がランカスター派の貴族・騎士の所領を没収したため更に貧困へ追い込まれた。やがてノーサンプトンシャーを訪れたエドワード4世に近づき夫の所領返還を願い出た所エドワード4世に気に入られジェーン・ショア(Jane Shore)を始めとする多くの愛人を差し置いて、その寵愛を獲得する。[[1464年]][[5月1日]]、エドワード4世と密かに結婚した。政権の有力者[[ウォリック伯]][[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|リチャード・ネヴィル]]は結婚に反対し、エドワード4世と激しく対立するようになった
 
[[1464年]][[5月1日]]にエリザベスはエドワード4世と密かに結婚したが、政権の有力者でエドワード4世の母方の従兄でもあった[[ウォリック伯]][[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|リチャード・ネヴィル]]は[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]の義妹[[ボナ・ディ・サヴォイア]]とエドワード4世の縁談交渉を行っていたため、破談で面目丸潰れとなったウォリック伯は結婚に反対し、エドワード4世と激しく対立するようになった。また、エリザベスの父と多くの弟妹たちがエドワード4世の優遇策で貴族に叙爵されたり貴族との政略結婚が盛んに行われ、急速にウッドヴィル家が外戚として成り上がったことも元来の外戚だったウォリック伯らネヴィル家と旧来の貴族達の怒りを買った<ref name="松村">松村、P232。</ref><ref>森、P96 - P100、ロイル、P274 - P277。</ref>。
[[1471年]]、ウォリック伯を倒したエドワード4世は国内を平定した後、[[1483年]]に病死する。エリザベスとの間の息子[[エドワード5世 (イングランド王)|エドワード5世]]が父の後を継いだものの、グロスター公リチャード([[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]])派による議会工作で、戴冠式前に王位継承の無効を宣言され、[[ロンドン塔]]に送られた。エドワード4世とエリザベスの結婚が重婚と見なされ、不法とされたためである。エドワード4世が以前エリナー・バトラーと結婚しており、エリナーが[[エリザベス・オブ・ヨーク]]誕生の頃まで生きており、エドワード4世はその後もエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を合法化する策を講じなかったため、リチャード3世は自身が即位するほか何もできなかったとも言われる。
 
[[1469年]]、反乱を起こしたウォリック伯の軍に国王軍は[[エッジコート・ムーアの戦い]]で敗れエドワード4世は幽閉、父と弟[[ジョン・ウッドヴィル|ジョン]]は処刑された。エドワード4世は短期間で解放され一時ウォリック伯と和睦したが、翌[[1470年]]にウォリック伯の再度の反乱で大陸へ亡命、ヘンリー6世が復位した。エドワード4世以外に頼る者がいないエリザベスは[[ウェストミンスター寺院]]へ逃れ、そこで庇護され息子[[エドワード5世 (イングランド王)|エドワード]](後のエドワード5世)を産んだが、生活は苦しく不安な日々を送った。
エリザベスは家族とともに[[ウェストミンスター寺院]]に逃れて、細々と命脈を保った。リチャードはエリザベスに危害を加える気は全くなかったが、罪悪感と欲に駆られたエリザベスが持てる限りの宝飾品を持って立てこもり、いくら説得されても出てこなかったともいわれる。
 
[[1471年]]、エドワード4世の逆襲でヘンリー6世は廃位され、ウォリック伯も[[バーネットの戦い]]で戦死したことでエリザベスは王妃に復帰した。エドワード4世は国内を平定した後、ウッドヴィル家重用を継続してエリザベスの弟のリヴァーズ伯[[アンソニー・ウッドヴィル (第2代リヴァーズ伯爵)|アンソニー]]や最初の夫との息子であるドーセット侯[[トマス・グレイ (初代ドーセット侯)|トマス・グレイ]]が宮廷に引き立てられたが、ウッドヴィル家と貴族達の対立も引き継がれる中[[1483年]]にエドワード4世は病死する<ref name="松村">松村、P232。</ref><ref>森、P100 - P104、ロイル、P292 - P295、P301 - P302、P312 - P314、P352 - P355。</ref>。
[[1485年]]にリチャード3世が戦死すると、[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]がエドワード4世とエリナー・バトラーの結婚の証拠を全て破棄し(国外には残った)、エリザベスは再び元王妃としての権利を得た。また、長女[[エリザベス・オブ・ヨーク]]はヘンリー7世の王妃になり、その子孫を通じて以降のイングランド王および女王はすべてエリザベスの子孫となる。
 
[[1471年]]、ウォリック伯を倒したエドワード4世は国内を平定した後、[[1483年]]に病死する。エリザベスとの間の息子[[エドワード5世 (イングランド王)|エドワード5世]]が父の後を継いだものの、叔父の[[グロスター公]]リチャード(後の[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]])が{{仮リンク|ウィリアム・ヘイスティングス (初代ヘイスティングス男爵)|en|William Hastings, 1st Baron Hastings|label=ウィリアム・ヘイスティングス男爵}}と[[バッキンガム公]][[ヘンリー・スタッフォード (第2代バッキンガム公爵)|ヘンリー・スタッフォード]](エリザベスの妹キャサリンの夫だったが反ウッドヴィル派)と結託して王位簒奪を図り、グロスター公派による議会工作でエドワード5世は戴冠式前に王位継承の無効を宣言され、[[ロンドン塔]]に送られた。エドワード4世とエリザベスの結婚が重婚と見なされ、不法とされたためである。エドワード4世が以前エリナー・バトラーと結婚しており、エリナーがエリザベスの同名の長女[[エリザベス・オブ・ヨーク]]誕生の頃まで生きており、エドワード4世はその後もエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を合法化する策を講じなかったため、リチャード3世は自身が即位するほか何もできなかったとも言われる。
王の未亡人としての年金も復活し、晩年はエリザベスはバーマンジー僧院(Bermondsey Abbey)に引退して平穏に生きた。ただしこれは、僭称者[[ランバート・シムネル]]の反乱に関わりがあることを疑われ、ヘンリー7世に強制されたと言う説もある<ref>Bennett, Michael, ''Lambert Simnel and the Battle of Stoke'', New York, St. Martin's Press, 1987, pp.42; 51; Elston, Timothy, "Widowed Princess or Neglected Queen" in Levin & Bucholz (eds), ''Queens and Power in Medieval and Early Modern England'', University of Nebraska Press, 2009, p.19.</ref>。
 
リチャード3世によりリヴァーズ伯とドーセット侯の弟リチャードなどウッドヴィル一族が処刑され、ドーセット侯がフランスへ逃亡、ヘイスティングス男爵も処刑される中、エリザベスは次男[[リチャード・オブ・シュルーズベリー (ヨーク公)|リチャード]]など家族と共に再びウェストミンスター寺院に逃れて、細々と命脈を保った。リチャード3世はエリザベスに危害を加える気は全くなかったが、罪悪感と欲に駆られたエリザベスが持てる限りの宝飾品を持って立てこもり、いくら説得されても出てこなかったともいわれる。根負けしたエリザベスは次男の引き渡しには同意したが、エドワード5世共々行方不明となり、エリザベスも再び不安な生活を送る中、[[マーガレット・ボーフォート]]から長女エリザベスとマーガレットの息子[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー]](後のヘンリー7世)の結婚を持ち掛けられ、ランカスター派とヨーク派の和解提案を受け入れた<ref name="松村">松村、P232。</ref><ref>森、P104 - P109、ロイル、P357 - P370、P374。</ref>。
 
[[1485年]]にリチャード3世が[[ボズワースの戦い]]で戦死すると、ヘンリー7世がエドワード4世とエリナー・バトラーの結婚の証拠を全て破棄し(国外には残った)、エリザベスは再び元王妃としての権利を得た。また、かねてからの約束通りに長女エリザベスはヘンリー7世の王妃になり、2人の子孫を通じて以降のイングランド王および女王はすべてエリザベスの子孫となる。王の未亡人としての年金も復活し、晩年エリザベスはバーマンジー僧院(Bermondsey Abbey)に引退して平穏に生きた。ただしこれは、僭称者[[ランバート・シムネル]]の反乱に関わりがあることを疑われ、ヘンリー7世に強制されたと言う説もある<ref>Bennett, Michael, ''Lambert Simnel and the Battle of Stoke'', New York, St. Martin's Press, 1987, pp.42; 51; Elston, Timothy, "Widowed Princess or Neglected Queen" in Levin & Bucholz (eds), ''Queens and Power in Medieval and Early Modern England'', University of Nebraska Press, 2009, p.19.</ref>。また、宮廷の主導権をエリザベスに握らせたくないマーガレットの意向も働いたとされている<ref name="松村">松村、P232。</ref><ref>森、P109 - P110、ロイル、P393 - P395。</ref>。
 
== 子女 ==
最初の夫ジョン・グレイとの間に2人の子を儲けた。
# [[トマス・グレイ (初代ドーセット侯)|トマス・グレイ]](1455年 - 1501年9月20日) - ドーセット侯
# リチャード・グレイ(1457年 - 1483年6月25日)
 
2番目の夫エドワード4世との間に10人の子を儲けた。
# [[エリザベス・オブ・ヨーク]](1466年2月11日 – 1503年2月11日) - [[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]王妃
# {{仮リンク|メアリー・オブ・ヨーク|en|Mary of York}}(1467年8月11日 – 1482年5月23日)
# {{仮リンク|セシリー・オブ・ヨーク|en|Cecily of York}}(1469年3月20日 – 1507年8月24日) - {{仮リンク|ジョン・ウェルズ (初代ウェルズ子爵)|label=ジョン・ウェルズ|en|John Welles, 1st Viscount Welles}}と結婚、後にトマス・クマエと再婚。
# [[エドワード5世 (イングランド王)|エドワード5世]](1470年11月4日 – 1483年?)
# {{仮リンク|マーガレット・オブ・ヨーク (1472年)|label=マーガレット・オブ・ヨーク|en|Margaret of York (1472)}}(1472年4月10日 - 1472年12月11日)
# [[リチャード・オブ・シュルーズベリー (ヨーク公)|リチャード・オブ・シュルーズベリー]](1473年8月17日 - 1483年?) - ヨーク公
# {{仮リンク|アン・オブ・ヨーク (サリー女伯)|label=サリー女伯アン・オブ・ヨーク|en|Anne of York, Countess of Surrey}}(1475年11月2日 - 1511年11月23日) - [[ノーフォーク公]][[トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]と結婚。
# {{仮リンク|ジョージ・プランタジネット (ベッドフォード公)|label=ベッドフォード公ジョージ・プランタジネット|en|George Plantagenet, Duke of Bedford}}(1477年3月 - 1479年3月) - ベッドフォード公
# {{仮リンク|キャサリン・オブ・ヨーク|en|Catherine of York}}(1479年8月14日 - 1527年11月15日) - {{仮リンク|ウィリアム・コートニー (初代デヴォン伯)|label=デヴォン伯ウィリアム・コートニー|en|William Courtenay, 1st Earl of Devon}}と結婚。
# {{仮リンク|ブリジット・オブ・ヨーク|en|Bridget of York}}(1480年11月10日 - 1517年) - 修道女。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* Denny, Joanna ''"Anne Boleyn"''
* [[森護]]『新版 英国王妃物語』[[三省堂]]、1992年。
* [[松村赳]]・[[富田虎男]]編『英米史辞典』[[研究社]]、2000年。
* [[トレヴァー・ロイル]]著、[[陶山昇平]]訳『薔薇戦争新史』[[彩流社]]、2014年。
 
== 小説 ==