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[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]、[[大坂城]]にて征長軍は軍議を開き、[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]までに各自は攻め口に着陣し、1週間後の[[11月18日 (旧暦)|18日]]に攻撃を開始すると決定した。広島の[[国泰寺 (広島市)|国泰寺]]には総督府、豊前の[[小倉城]]には副総督府を置くことになった。将軍が最終的に長州藩へ処罰(公裁)するが、総督は長州藩への降伏条件の決定、征長軍の解兵時期について権限をもつ。幕府は朝敵となった長州の藩邸を没収、藩主父子に謹慎を命じた。しかし、どのような条件で長州藩へ謝罪をさせるかについては決めず、幕府や征長軍内においては厳罰的な案を含めていくつかの案が出された。
 
この時、征長軍に参加して萩口の先鋒を任されていた[[薩摩藩]]は独自の動きを見せた。[[福岡藩]]士の喜多岡勇平、薩摩藩士の[[高崎五六]](兵部)が[[9月30日 (旧暦)|9月30日]]に岩国新湊に入ると、[[岩国藩]]の[[吉川経幹]](監物)と薩摩藩は征長における交渉に入った。[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]、高崎は岩国へ宛てて、薩摩藩は長州藩のために尽力するが暴徒を処罰し、黒白を明らかとして、悔悟の念を明らかとするのが肝要である。また[[三条実美]]ら五卿の追放、時と場合によっては藩主父子が総督府の軍門に自ら出てくる必要があるが、まずは安心してよいという内容の手紙を送った。手紙には高崎は京都で留守番をするが大島吉之助([[西郷隆盛]](吉之助)が征長軍で交渉を担当するため、遠からず岩国に入るかもしれないと書かれている。
 
[[10月24日 (旧暦)|24日]]、大坂において西郷は総督慶勝へ長州藩降伏のプロセスについて腹案を述べると、慶勝はその場で西郷へ脇差一刀を与えて信認の証とし、西郷は征長軍全権を委任された参謀格となった。慶勝と西郷は総督府を幕府の統制下より離れさせ寛典論に基づく早期解兵路線へ「独走」させた。