「犍為郡」の版間の差分

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[[紀元前135年]]([[建元 (漢)|建元]]6年)、漢の郎中将の唐蒙が軍を率いて[[夜郎|夜郎国]]に入り、夜郎侯多同と会見すると、漢の役人を置くことを約束させた。唐蒙が帰朝すると、その地に&#29325;為郡が立てられた<ref>『[[漢書]]』西南夷伝</ref>。
 
[[前漢]]の&#29325;為郡は[[益州]]に属し、[[宜賓市|僰道]]・[[江陽県|江陽]]・[[武陽県|武陽]]・[[南安県楽山市|南安]]・[[資中県|資中]]・[[符県|符]]・[[簡陽市|牛鞞]]・[[南広県|南広]]・[[漢陽青神県|漢陽]]・[[𨚲䣕県|𨚲䣕]]・[[朱提県昭通市|朱提]]・[[堂琅巧家県|堂琅]]の12県を管轄した。[[王莽]]のとき、西順郡と改められた<ref>『漢書』地理志上</ref>。
 
[[後漢]]が建てられると、&#29325;為郡の称にもどされた。後漢の&#29325;為郡は武陽・資中・牛鞞・南安・僰道・江陽・符節・南広・漢安の9県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志五</ref>。
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[[晋 (王朝)|晋]]のとき、&#29325;為郡は武陽・南安・僰道・資中・牛鞞の5県を管轄した<ref>『晋書』地理志上</ref>。
 
[[宋 (南朝)|南朝宋]]のとき、&#29325;為郡は武陽・南安・資中・僰道・[[冶官県|冶官]]の5県を管轄した<ref>『宋書』州郡志四</ref>。
 
[[斉 (南朝)|南朝斉]]のとき、&#29325;為郡は僰道・南安・資中・冶官・武陽の5県を管轄した<ref>『南斉書』州郡志下</ref>。