「長岡京」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
17行目:
* 新京の周辺地域をおさえる、[[帰化人]]勢力との関係
* 父の[[光仁天皇]]の代から天智系に皇統が戻った事による人心一新
* [[難波津]]の土砂の堆積によってここを外港としてきた大和国の東西間交通の接点としての地位を失い(難波津-大和国-[[鈴鹿関]]ルートの衰退)、代わって三国川(現在の[[神崎川]])の工事の結果、[[淀川]]-山背国-[[琵琶湖]]・[[近江国]]のルート経路が成立したこと(長岡遷都と[[難波宮]]廃止が同時に決められている)<ref name="kitamura">北村優季「長岡平城遷都の史的背景」(初出:『国立歴史民俗博物館研究報告』134集(2007年)/所収:北村『平城京成立史論』(吉川弘文館、2013年) ISBN 978-4-642-04610-7</ref>
 
等の説がある。[[784年]](延暦3年)は[[甲子]]革令の年であり、桓武天皇は[[天武天皇|天武]]系とは異なる[[天智天皇|天智]]系の天皇であった。