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=== チベット・モンゴル・満洲・東トルキスタンなど ===
{{main|チベット・モンゴル相互承認条約|満洲国|東トルキスタン共和国}}
====チベット====
辛亥革命に先立つ1906年から1910年にかけて、[[四川省]]の[[総督]][[趙爾豊]]が、チベット東部地方一帯から[[ラサ]]に至る地域を制圧し、チベットの国主ダライラマ十三世は1910年、インドに亡命していた。
趙は[[カム地方]]<ref>西部はダライラマを首班とする[[ガンデンポタン]]の直轄領およびガンデンポタンに従属する聖俗の諸侯領、東部は四川省・[[兵部]]を介して清朝肯定の[[羈縻支配]]を受ける諸侯領が分布。</ref>に[[西康省]]を設置し、また、「西蔵」<ref>「西蔵」は、1724年〜32年にかけて行われた[[雍正のチベット分割]]に置いて、「ダライラマ領」とされた中央チベットに対する中国語名。</ref>についても、ガンデンポタンを廃して建省しようと試みたが、1911年、[[武昌蜂起]]の報に接して、成都に帰還、革命派との抗争に敗北して死去した。
インドからチベットに帰還したダライラマ十三世は、チベットの独立を宣言し、中国の統治機構の一掃を指示、チベット軍はラサから中国軍を一掃したのち東進を開始、1[[蜀軍]](=四川軍閥)に代わりカム地方東部に進出してきた雲南軍閥と激しい戦闘を繰り広げた。1913年からイギリスも参加して開始された[[シムラ会議]]が始まり、停戦が実現するが、その後もチベットの全域の回復を目指す[[ガンデンポタン]]と、アムド地方<ref>清朝期の[[雍正のチベット分割]]以来、[[青海]]と[[甘粛省]]の西南部、[[四川省]]の西北部などに3分割。</ref>の中央部を掌握するイスラム教徒の[[馬歩芳]]とその一族、アムド地方の東南部とカム地方の東部を掌握する四川軍閥、カム地方の南部を掌握する雲南軍閥とが対峙する形成が続く。
== 辛亥革命を題材にした作品 ==
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