「辛亥革命」の版間の差分

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=== チベット・モンゴル・満洲・東トルキスタンなど ===
{{main|チベット・モンゴル相互承認条約|満洲国|東トルキスタン共和国}}
 
[[1913年]][[1月11日]]、チベット・モンゴルは相互に独立承認を行い、外部からの攻撃に対しては相互に援助しあうことなどが約された。チベットは1949年に人民解放軍の侵攻を受けるまで独立を維持した。しかし、中華民国は南モンゴルを支配下に組み込んだためソビエトの支援を受けた北モンゴルのみが独立を達成できた。1930年代に入ると満洲では満洲国が建国され、東トルキスタンでは[[東トルキスタン共和国]]が建国されるなどしたが、漢民族による[[国共内戦]]が終結し中華人民共和国が建国されると、辛亥革命後に孫文が提唱した通りに多くの周辺民族地域を中国に組み込むことに成功した<ref name="sakai20040224">{{cite journal|和書
====チベット====
| url = http://sakainobuhiko.com/2004/02/post-18.html#extended
辛亥革命に先立つ1906年から1910年にかけて、[[四川省]]の[[総督]][[趙爾豊]]が、チベット東部地方一帯から[[ラサ]]に至る地域を制圧し、チベットの国主ダライラマ十三世は1910年、インドに亡命していた。
| title = 中国・中華は侵略用語である ― シナ侵略主義の論理構造 ―
 
| author = [[酒井信彦]]
趙は[[カム地方]]<ref>西部はダライラマを首班とする[[ガンデンポタン]]の直轄領およびガンデンポタンに従属する聖俗の諸侯領、東部は四川省・[[兵部]]を介して清朝肯定の[[羈縻支配]]を受ける諸侯領が分布。</ref>に[[西康省]]を設置し、また、「西蔵」<ref>「西蔵」は、1724年〜32年にかけて行われた[[雍正のチベット分割]]に置いて、「ダライラマ領」とされた中央チベットに対する中国語名。</ref>についても、ガンデンポタンを廃して建省しようと試みたが、1911年、[[武昌蜂起]]の報に接して、成都に帰還、革命派との抗争に敗北して死去した。
| journal = 財団法人・日本学協会『日本』
 
| volume = 2004年(平成16年)2月号
インドからチベットに帰還したダライラマ十三世は、チベットの独立を宣言し、中国の統治機構の一掃を指示、チベット軍はラサから中国軍を一掃したのち東進を開始、1[[蜀軍]](=四川軍閥)に代わりカム地方東部に進出してきた雲南軍閥と激しい戦闘を繰り広げた。1913年からイギリスも参加して開始された[[シムラ会議]]が始まり、停戦が実現するが、その後もチベットの全域の回復を目指す[[ガンデンポタン]]と、アムド地方<ref>清朝期の[[雍正のチベット分割]]以来、[[青海]]と[[甘粛省]]の西南部、[[四川省]]の西北部などに3分割。</ref>の中央部を掌握するイスラム教徒の[[馬歩芳]]とその一族、アムド地方の東南部とカム地方の東部を掌握する四川軍閥、カム地方の南部を掌握する雲南軍閥とが対峙する形成が続く。
| publisher = 日本ナショナリズム研究所
| date = 2004-02-24
| accessdate = 2011-11-28
}}</ref>。
 
== 辛亥革命を題材にした作品 ==