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== 艦歴 ==
[[ファイル:Junichi Mikuriya - Japanese submarine attacks coast of California.jpg|right|thumb|300px|御厨純一筆 「わが潜艦加州沿岸を砲撃」]]
[[1937年]]([[昭和]]12年)の第三次海軍軍備補充計画([[マル3計画]])により、[[1938年]](昭和13年)4月18日に[[横須賀海軍工廠]]で起工。[[1939年]](昭和14年)7月19日に進水し、[[1941年]](昭和16年)[[1月24日]]に竣工した。竣工と同時に[[横須賀鎮守府]]籍となり、[[第六艦隊 (日本海軍)|第六艦隊]]第1潜水戦隊第1潜水隊に編入された。
竣工は[[1941年]][[1月24日]]に[[横須賀海軍工廠]]で行われた。[[太平洋戦争]]開戦時には[[第六艦隊 (日本海軍)|第六艦隊]]第一潜水戦隊に所属し、[[真珠湾攻撃]]に後詰めとして参加した。その後は[[アメリカ本土攻撃|アメリカ西海岸沿岸における通商破壊作戦]]任務につき2隻の船(「サモア」、「ラレー・ドネー」)を撃沈した。
 
[[太平洋戦争]]開戦時には第六艦隊第1潜水戦隊第1潜水隊に所属。11月21日、伊17は[[横須賀港|横須賀]]を出港。12月8日の[[真珠湾攻撃]]では、[[オアフ島]]北東沖を哨戒。9日、[[伊号第六潜水艦|伊6]]が[[オアフ島]]沖を東北東へ向け航行中の[[レキシントン級航空母艦|レキシントン級空母]]1、巡洋艦2隻を発見したため、迎撃に向かった。10日、浮上航走中に米哨戒機を発見したため、急速潜航。その後浮上中に米哨戒機の攻撃を受けたが、被害はなかった。14日、[[アメリカ本土攻撃|アメリカ西海岸沿岸における通商破壊作戦]]に参加して[[カリフォルニア州]]メンドシノ岬沖に移動。18日夕方、メンドシノ岬沖12浬地点付近で浮上中、[[サンディエゴ]]に向かっていた米木材運搬船サモア(Samoa、1,997トン)を発見し、探照灯で照らし出して砲撃を開始。そのうち、1発が空中で爆発し、サモアの甲板に破片をまき散らした。その後、逃げるサモアに対し魚雷1本を発射したが、魚雷はサモアの船底下を通過した後爆発し、ダメージを与えることができなかった。20日1345、{{coor dm|34|30|N|124|50|W|}}のメンドシノ岬西方8浬地点付近で浮上中、空船で[[シアトル]]から[[ベンチュラ (カリフォルニア州)|ベンチュラ]]に向かっていた米[[エクソンモービル|ソコニー・バキューム・オイル社]]タンカー'''エミディオ'''(Emidio、6,912トン)を発見。エミディオ側も伊17を発見し、救難信号を発信しながら逃げようとした。伊17は同船を追跡し、主砲弾6発を発射。うち5発がエミディオに命中。1発はマストをへし折り、1発は救命ボートに直撃して乗員3名を吹き飛ばした。その後、30分以内にほとんどの生存者がエミディオから離れた。その様子を見ていた伊17は飛来する米軍機を発見したため急速潜航。うち1機が爆雷攻撃をしてきたが、被害はなかった。航空機が去った1435、伊17はエミディオへ向け魚雷2本を発射。うち1本が右舷船尾に命中した。伊17はエミディオを撃沈したと判断したが、エミディオは後半部を沈めながら漂流し、[[クレセントシティ (カリフォルニア州)|クレセントシティ]]バッテリーポイント灯台近くの岩場に座礁した<ref group="注釈">その後風浪により船体が分断。船首はクレセントシティの港内で再度座礁し、戦後の1959年(昭和34年)に船舶交通の障害となるため解体された。</ref>。エミディオはアメリカ西海岸沿岸における通商破壊作戦で最初に破壊(撃沈)された輸送船となった。23日0310、[[ユーレカ (カリフォルニア州)|ユーレカ]]南西80浬地点付近で浮上中、米リッチフィールド・オイル社タンカーラリー・ドヘニー(Larry Doheny、7,038トン)を発見し、2800mの距離で砲撃を開始。4発が命中し、ラリー・ドヘニーの船橋から煙が上がるのを確認。その後米哨戒機がやってきたため急速潜航し、15分後に潜望鏡深度に戻った。0329、伊17は魚雷1本を発射し、90秒後に爆発した。伊17はラリー・ドヘニーを撃沈したと判断したが、実際には魚雷は早爆し、ラリー・ドヘニーの居住区のドア1枚を吹き飛ばしたのみにとどまった<ref group="注釈">ラリー・ドヘニーは[[1942年]](昭和17年)10月6日に[[伊号第二十五潜水艦|伊25]]の雷撃により撃沈された。</ref>。 [[1942年]](昭和17年)1月2日、[[ハワイ]]東方500浬地点付近で、空母と駆逐艦1隻ずつが護衛する輸送船5隻からなる輸送船団を発見するも、攻撃に失敗。11日、[[クェゼリン環礁|クェゼリン]]に到着した。
[[1942年]](昭和17年)[[2月24日]]、[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]]のエルウッド精油所を艦載の14cm砲(計17発)で砲撃しこれに被害を与えた。被害金額は当時の金額で500ドル。現在の価値にして1500万円程度。帰途に[[タンカー]]1隻と輸送船1隻を撃沈。
 
2月1日、クェゼリンは[[マーシャル・ギルバート諸島機動空襲]]を受けるが、伊19に被害はなかった。その後0625にクェゼリンを出港し、迎撃に向かったが空振りに終わった。同日、第2潜水隊所属の[[伊号第十八潜水艦|伊18]]、[[伊号第二十潜水艦|伊20]]と交代する形で、[[伊号第十五潜水艦|伊15]]と共に第2潜水隊に編入された。
1942年5月からアリューシャン作戦に参加。アッツ島の偵察を実施。6月12日にカタリナ飛行艇の爆撃を受け、6月27日ダッチハーバーで駆逐艦(艦名不詳)に衝突された。
 
20日、伊17はサンディエゴ近海に到達。日付が21日に変わった直後、浮上充電中に哨戒艇を発見。浮上して退避するも相手が追跡してきたため、潜航した。24日1910、浮上した伊17はエルウッド精油所の石油貯蔵タンクへ向け砲撃を開始。砲弾7発を発射して命中弾を得たが、火災は起きなかった。そのため、精油所へ向け砲弾10発を発射。複数の消防車とサイレンを確認。1935には火災が起きているのを確認したため現場を離れた。2030、航行する伊17を目撃した住民からの通報で航空機3機、駆逐艦2隻が伊17の攻撃に向かったが、伊17を見つけられなかった。発射された砲弾は3発が精油所近くの海岸線に、1発が牧場に、1発が別の牧場に着弾。1発が油井の近くに着弾してキャットウォークやポンプ設備に被害額500ドル、現在の価値にして1500万円程度の損傷を与えた。また、砲撃により埠頭と油井デリックに軽微な損害を与えた。3月1日1800、{{coor dm|37|25|N|123|28|W|}}の[[サンフランシスコ]]南西沖で米スタンダード・オイル社タンカーウィリアム・H・ベルク(William H. Berg、8,298トン)を発見し、魚雷を一斉発射。爆発音1回を聴取した後浮上し、砲撃を開始。ウィリアム・H・ベルクも搭載砲で応戦を開始した。やがて、米駆逐艦が接近するのを確認したため潜航し退避した。2日1700、メンドシノ岬付近で7,000トン級輸送船を撃沈したと報告<ref group="注釈">連合軍側に該当船はない。</ref>。6日、サンフランシスコ近海に移動。12日1630、哨戒区域を離れる。30日、横須賀に到着して整備を受ける。
その後も通商破壊や偵察、[[ガダルカナル島]]への輸送任務などについたが、1943年(昭和18年)8月10日以降消息不明に。[[8月19日]]に水上機の攻撃により[[ヌーメア]]湾にて戦没した。若干名の生存者がいる。
 
5月15日、伊17は横須賀を出港し、17日に[[大湊港|大湊]]に到着。19日、[[アリューシャン方面の戦い|AL作戦]]に参加して大湊を出港。27日、[[アッツ島|アッツ]]を偵察。11日、[[ウニマク島]]へ向け浮上航走中に米[[PBY (航空機)|PBY カタリナ]]に発見され爆雷攻撃を受ける。この攻撃により燃料漏れが起きたが、損害は軽微であり、翌朝には修理により油漏れも収まった。13日、ウニマク島を偵察。25日、[[ダッチハーバー]]付近で米駆逐艦を発見。魚雷発射直前に接近する別の米駆逐艦を発見。取舵一杯により回避しようとしたが、体当たり攻撃を受けて射出機と艦首バラストタンクが軽微な損傷を受ける。その後、水深80mの位置へ潜航して退避した。29日、哨戒区域を離れ、7月7日に横須賀に戻った。
 
8月15日、伊17は横須賀を出港し、[[ソロモン諸島]]方面に向かった。23日、{{coor dm|06|48|S|163|20|E|}}の[[シカイアナ環礁]]北方沖で浮上航走中、米空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]](''USS Enterprise, CV-6'')から発進した[[SBD (航空機)|SBD ドーントレス]]の攻撃を受けたため潜航。0815に浮上したが再度攻撃を受けたため潜航。この攻撃で右舷メインバラストタンクカバーに機銃弾4発が命中した。24日の[[第二次ソロモン海戦]]では浮上航走中、またもエンタープライズの艦載機の攻撃を受けたが、被害はなかった。27日0130、南に向かうエンタープライズを発見。28日には空母1、戦艦1、巡洋艦4からなる米機動部隊を発見。同日、米駆逐艦2隻の爆雷攻撃を受けるが、水深80mの位置に潜航して回避した。9月20日、米駆逐艦1隻を発見。同日、哨戒区域を離れる。25日、[[チューク諸島|トラック]]に到着。
 
10月5日、伊17はトラックを出港し、8日に[[ショートランド諸島|ショートランド]]に到着。9日、ショートランドを出港。13日、米空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]](''USS Hornet, CV-8'')を発見。その後ホーネットの攻撃に向かうが、見つけることができなかった。18日、[[インディスペンサブル礁]]に到着して[[零式水上偵察機]]の到着を3時間ほど待ったが、任務中止により水上機は来なかった。22日、[[マキラ島|サンクリストバル島]]西方沖に進出。11月11日早朝、15浬北方での爆雷攻撃の音を聴取。19日、ショートランドに到着。
 
22日、主砲を取り外して輸送物資19トンを搭載してショートランドを出港し、24日に[[ガダルカナル島]]カミンボに到着して輸送物資11トンを降ろした後、[[第三次ソロモン海戦]]で沈没した駆逐艦[[綾波 (吹雪型駆逐艦)|綾波]]艦長の作間英邇中佐、[[甲標的]]乗員、傷病兵、計7名を収容した後出港。30日、トラックに到着。12月2日にトラックを出港し、8日に横須賀に到着して便乗者を降ろした後、整備を受ける。
 
[[1943年]](昭和18年)1月3日、伊17は横須賀を出港し、9日にトラックに到着。17日にトラックを出港し、20日に[[ラバウル]]に到着。24日、[[ドラム缶]]入りの輸送物資を搭載してラバウルを出港し、28日にカミンボに到着して輸送物資11トンを海上に投棄したが、一部は降ろすことができなかった。29日夜、[[レンネル島沖海戦]]の支援のため戦場付近に進出するが、駆逐艦の推進器音を聴取したため急速潜航して退避した。30日、曳航中の米重巡洋艦[[シカゴ (CA-29)|シカゴ]](''USS Chicago, CA-29'')の迎撃に向かったが、シカゴは空爆により撃沈された。2月1日、米駆逐艦[[ラ・ヴァレット (DD-448)|ラ・ヴァレット]](''USS La Vallette, DD-448'')を発見。8日、[[レンネル島]]南南東150浬地点付近で航空機が発見した米艦隊の攻撃に向かう。13日、14ノットで南進中の巡洋艦と駆逐艦を発見。28日、[[珊瑚海]]のフレデリック環礁を偵察。3月3日、[[ビスマルク海海戦|第八十一号作戦]]の生存者救助に向かった。4日深夜に現場に到着した伊17は救助活動を開始<ref>[[#高松宮日記]]p.85</ref>。5日0500、救命ボート3隻に横付けされて救助作業中、米魚雷艇[[PT-143 (魚雷艇)|PT-143]]と[[PT-150 (魚雷艇)|PT-150]]に発見される。2隻は魚雷を発射してきたが命中せず、伊17は司令塔に機銃掃射を受けながら急速潜航して退避した。その後、救命ボート3隻はPTボート2隻の機銃掃射と爆雷攻撃で撃沈された。4時間45分後、伊17は再度浮上して陸軍兵士34名を救助したが、そのうち1名は艦上で死亡した。6日も救助活動を行い<ref>[[#高松宮日記]]p.99</ref>、空爆と[[PTボート]]の攻撃を受けつつも陸軍兵士118名と船員4名を救助した<ref name=a>『艦長たちの軍艦史』403頁</ref>。12日、[[ラエ]]に到着して便乗者を降ろした後出港。8日にトラックに到着した。
 
同日、伊17はトラックを出港し、[[フェニックス諸島]]方面に向かった。16日には停泊中の艦船2隻へ向け3000mの距離から魚雷2本を発射したが、魚雷はいずれも目標の下を通過した。18日、[[フィジー諸島]]と[[サモア諸島|サモア]]の間で通商破壊を行う。5月24日0407、{{coor dm|23|44|S|166|30|E|}}の[[ヌメア|ヌーメア]]南方75浬地点付近で、燃料油と海軍向け機材150トン、PTボート6隻を積んで[[ニューヨーク]]からヌーメアに向かっていたパナマタンカー'''スタンバック・マニラ'''(Stanvac Manila、10,138トン)を発見し雷撃。魚雷はスタンバック・マニラの左舷船尾に命中。同船は船尾から沈み始め、放棄された。やがて、右舷側に周回していたスタンバック・マニラは船首を棒立ちにさせ、積荷の[[PT-165 (魚雷艇)|PT-165]]、[[PT-173 (魚雷艇)|PT-173]]もろとも沈没した。6月12日、トラックに到着。
 
7月25日、伊17はトラックを出港し、[[エスピリトゥサント島]]へ向かった。8月10日、エスピリトゥサント島を航空偵察し、複数の戦艦と空母の在泊の報告を最後に消息不明。
 
アメリカ側記録によると、19日1400、ヌーメア沖でヌーメアからエスピリトゥサント島に向かっていた米雑役艦{{仮リンク|タガナク (雑役艦)|label=タガナク|en|USS Taganak (AG-45)}}(''USS Taganak, AG-45'')、米[[リバティ船]]ウィリー・ポスト(Wiley Post、7,176トン)の2隻を護衛するニュージーランド掃海艇[[トゥイ (掃海艇)|トゥイ]]([[:en:HMNZS Tui (T234)]])が東方3100mの距離で潜航する潜水艦をソナー探知したため、船団はジグザグ航行を開始。トゥイは爆雷4発を投下したが、効果はなかった。やがて、[[OS2U (航空機)|OS2U キングフィッシャー]]が到着し、潜望鏡を発見。そのため、キングフィッシャーは爆雷2発を投下し、別のキングフィッシャーも爆雷2発を投下した。そのうち2つは潜水艦の近くで爆​​発したらしく、気泡と重油が浮かび上がるのを確認。1629、キングフィッシャーは潜水艦がいるであろう位置に発煙筒を投下した。やがて、潜水艦が急角度で浮上してきたため、キングフィッシャーは機銃掃射を行ったが、機銃は途中で故障した。潜水艦は18ノットで航行し、対空射撃を開始してきた。迎撃のため、さらにキングフィッシャー4機が到着。まず1機が潜水艦の後方から攻撃を仕掛け、爆雷2発を投下したが爆発しなかった。次に別の1機が10mに設定した爆雷2発を潜水艦の司令塔後方に投下。その結果、潜水艦は周回運動を始めた。最後にまた別の1機が3mに設定した爆雷1発を潜水艦の右舷真横に投下。爆雷は爆発し、15mもの水柱が上がった。爆発から1分足らずで、潜水艦は沈没した。トゥイは生存者6名を救助した。尋問の結果、潜水艦は伊17であることがわかった。これが伊17の最期の瞬間であり、艦長の[[原田毫衛]]少佐以下乗員97名が戦死した<ref name=a/>。沈没地点はヌメア沖のアメデ灯台南南東55浬地点付近、{{coor dm|23|26|S|166|50|E|}}。
 
10月24日、[[オーストラリア]]方面で亡失と認定され、12月1日に除籍された。
 
撃沈隻数は2隻で、計17,050トンにのぼる。また、商船1隻、7,038トンに損傷を与えた。
 
== 歴代艦長 ==
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==脚注==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* 雑誌「丸」編集部『<small>写真</small> 日本の軍艦 第12巻 <small>潜水艦</small>』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0462-8
*{{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第六巻 {{small|昭和十八年二月十二日~九月}}|publisher=中央公論社|year=1997|month=3|ISBN=4-12-403396-6|ref=高松宮日記}}
*外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
*[[福井静夫]]『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1