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'''ロディの戦い''' または '''ローディの戦い''' ({{lang-fr|Bataille du pont de Lodi}}) は[[1796年]][[5月10日]]、[[北イタリア]]のロディ([[ローディ|ロディ]]において、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]将軍指揮の[[フランス第一共和政|フランス]]軍と[[ヨハン・ボーリュー]][[元帥]]指揮の[[オーストリア大公国|オーストリア]]([[神聖ローマ帝国]])軍の後衛との間で行われた戦い<ref name="kitahara_335">[[#北原|北原(2008)pp.335-337]]</ref><ref group="注釈">5月10日は、パリでは[[フランソワ・ノエル・バブーフ]]による陰謀事件(バブーフの陰謀)が発覚して、[[フィリッポ・ブオナローティ]]らが逮捕された日であった。[[#北原|北原(2008)p.336]]</ref>。オーストリア軍後衛は敗れたが、主力が退却する時間はあった。
 
== 背景 ==
ナポレオンは[[イタリア戦役 (1796-1797年)|イタリア戦役]]の初めに[[サルデーニャ王国|ピエモンテ=サルデーニャ王国]]の軍隊を破ると、次にその同盟国であるオーストリア軍に矛先を向けた<ref name="kitahara_335"/>。戦役中最も見事な機動のひとつとして、ナポレオンは[[ポー川]]の南岸に沿って迅速な行軍を行い、オーストリア軍が[[ミラノ]]に退却する進路を遮断すべく、[[ピアチェンツァ]]付近で対岸に橋を懸けた。オーストリア軍は危険に気づくと直ちに退却したが、そのほとんどはロディを経由していた。彼らにロディを防衛するという意図はいささかも無かったと思われるが、フランス軍が退却するオーストリア軍の後衛を町の近くで捕捉したため、にわかにその必要が生じた。
 
== 戦闘 ==
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オーストリアの損失は、死傷・行方不明合わせて士官21人、兵2,015人、馬235頭に及んだ。加えてキャノン砲12門、榴弾砲2門に弾薬車30両を失った。フランス側の損失は精度を問わず明らかでないが、およそ500程度と思われる。スミスは、フランス側の損害を900とし、またチャンドラーは2,000人をリストアップしている。
 
ナポレオンはさらにロンバルディアに向けて兵を進めたが、オーストリア軍はマントヴァの堅固な要塞で防衛態勢を整えた<ref name="kitahara_335">。
 
== 後日談 ==
オーストリア軍が逃走に成功したため、ロディの戦いは決定的な勝利とはならなかった。しかし、この勝利はナポレオン神話の中核となり、ナポレオン自身にとっても、自分が他の将軍より優れていること、そしてなにか大きなことを成し遂げるよう運命づけられているということを、自ら納得することにつながった。フランス軍がこの戦いの後、ナポレオンを「小伍長」と呼び始めたという逸話の源は検証される必要がある。そのこと自体が神話であるかも知れないのである。
 
=== 脚注 ===
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
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* ディグビー・スミス ''{{lang|en|The Napoleonic Wars Data Book.}}'' London: Greenhill, 1998. ISBN 1-85367-276-9
* F・ヴィゴ=ルシヨン {{lang|fr|Journal de campagne (1793-1837). Paris, 1981}}
* {{Cite book|和書|editor=[[北原敦]]|chapter=|year=2008|month=8|title=イタリア史|publisher=[[山川出版社]]|series=新版 世界各国史15|isbn=978-4-634-41450-1}}
 
** {{Cite book|和書|author=北原敦|editor=|chapter=18世紀改革期からナポレオン改革期へ|year=2008|title=イタリア史|isbn=978-4-634-41450-1|ref=北原}}
=== 脚注 ===
<references/>
 
== 外部リンク ==
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{{ナポレオン戦争}}
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:ろていのたたかい}}
[[Category:1796年の戦闘]]
[[Category:フランス革命戦争]]