「市川團十郎 (8代目)」の版間の差分

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八代目團十郎はその美貌によって広い人気を集めたが、32歳のとき突如として自殺するという衝撃的な最期を遂げた。
 
[[文政]]6年 (1823(1823)、[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]]と妻すみ(芝居茶屋、福地善兵衛の娘)の長男として[[江戸]]に生れる<ref name="池上"/>。團十郎家の跡継ぎとして見込まれて生後一箇月で初舞台を踏み、二代目[[市川新之助]]を名乗る<ref name="池上"/>。文政8年 ([[1825年]])、[[数え年|数え]]三つにして六代目[[市川海老蔵]]を襲名した。さらに[[天保]]3年 ([[1832年]]) には父が五代目市川海老蔵を名乗ったのにあわせて、10歳にして[[市村座]]で八代目[[市川團十郎]]を襲名する<ref name="池上"/>。
 
面長の美貌で、歴代の團十郎とはまったく[[ニン|仁]]の異なる[[二枚目]]役者だった。[[天保の改革]]によって一時深刻な不況をこうむった江戸の芝居町に人出が戻ったのは、八代目團十郎に負うところが大きかった。上品ななかに独特の色気があり、おっとりとした愛嬌が身にそなわって、嫌味がなかったという。当時の批評には「男振りはすぐれて美男子といふにあらねど、いはゆる粋で高等で人柄で、色気はこぼれる程あれどもいやみでなく、すまして居れども愛嬌があり」(『俳優百面相』)とある。さわやかで高音の利いた調子の[[科白]]回しがうまく、こうした特色は彼が初演した『[[与話情浮名横櫛]]』(切られ与三)の与三郎によくあらわれている。
 
[[嘉永]]7年 ([[1854年]])、[[大阪市|大坂]]の芝居に出演していた父・海老蔵を訪ねて[[東海道#江戸時代|東海道]]をのぼり、[[名古屋市|名古屋]]で父といっしょになって舞台をつとめた。7月中には大坂に着き、[[道頓堀]]で[[船乗込み]]を行って[[稽古]]にかかったが、初日に[[旅館]]の一室で突如自殺する。享年32。動機は不明だが、一説には図らずも大坂の芝居に出演することになってしまったため江戸の座元(劇場所有者)への義理を立てたといわれる。
 
得意な役柄は『切られ与三』の与三郎のほかに、『[[菅原伝授手習鑑]]』の梅王、『[[児雷也豪傑譚]]』の児雷也、『[[助六所縁江戸桜]]』の花川戸助六、『[[偐紫田舎源氏]]』の足利光氏などの二枚目のほか荒事も好んでつとめた。[[市川宗家]]の芸に和事芸という新しい分野を開拓、その芸の系譜は[[市川團十郎 (11代目)|十一代目團十郎]]に引き継がれることになる。
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==逸話==
*父の七代目が江戸追放となったとき、精進茶断ちをして[[蔵前]]の[[成田不動]]まで日参したと伝えられる。[[弘化]]2年([[1845年]])、これをもって孝子として[[北町奉行所]]から表彰された<ref name="池上"/>。
*『[[助六]]』の「水入り」に使った[[天水桶]]の水が[[徳利]]一本一[[ (曖昧さ回避)|分]]で売れた、吐き捨てた[[痰]]を[[女中|御殿女中]]たちが肌守りにしたなど、その美貌と人気を伝える逸話が数多くある。
*鷹揚で温厚な性格は誰からも愛された。團十郎家に融通した多額の金がいつまでたっても返済されないことに業を煮やした債権者たちが、あるとき皆で相談して大挙して八代目の自宅に押し寄せ、玄関先を埋め尽くして通せんぼをした。貸した金をいくらかでも取り立てないうちは八代目を自宅から一歩も外へは出させまいという算段である。これを見た八代目は、逃げ口上のつもりで債権者たちに「よくおいでなさいました。申し訳ございませんが、楽屋入りでございますので、どうかご免を蒙ります。どちら様もごゆるりとなさいませ」と言ったところ、並み居る債権者の誰もが痛み入ることしきりで、逆に八代目のために道を明けて「どうぞ、ご自由においでなさいませ」と慇懃に送り出してしまった。
*弘化5年([[1848年]])。奈良県天理市の[[楢神社]]に井筒を奉納した。団十郎は楢神社の信奉者だった。